弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた

静まりの時 2022年5月20日(金)
マタイ8・18~22

「さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。・・・」

(マタイ8・18、新改訳2017)

 19節以降については、今年(2022年)3月13日の礼拝説教でお話ししていますので、興味のある方はそちらをご覧ください。今朝は18節のみに心を留めたいと思います。

 イエスさまは群衆が自分の周りにいるのをご覧になりました。イエスさまはその群衆に「羊飼いのいない羊の群れように、弱り果てて倒れていた」(9・36)姿を発見されているのだと思います。もしそうであればここでも弟子たちに向かって、その群衆に仕えお世話をするように命じられてもよかったと思います。しかしこの時イエスさまは弟子たちに「向こう岸に渡るように命じられ」ました。向こう岸へ渡る舟ではイエスさまが嵐を静められる姿を、また向こう岸に渡ってからは悪霊につかれた二人の人をイエスさまがいやされる姿を、弟子たちは見ることになります。向こう岸に渡る目的は、そのようなイエスさまのお姿を見るためだったのだと思います。
 それらに加えて、群衆に囲まれる自分に従ってきたあわただしい中にある弟子たちを、その群衆から離し、弟子たちだけの時間を持たせることに、また目的があったのではないかと思います。

 同労者だけの時間、また教会においては、召された役員と心一つにしてともに祈る輪が形づくられること。そこには大きな意味があり、イエスさまのみこころがあるのだと思います。群衆に囲まれていては見えないものがあり、見過ごしてしまうものがある、ということかもしれません。自分自身を見失ってしまうということも起こるかもしれません。

 コロナ禍にあって、ともに集うことが難しくなり、団体の牧師会もオンラインが中心となりました。オンラインであっても「ともに集まる」ということが保たれているので、良い時代を迎えているのだと、感謝しています。しかしやはり、オンラインではなく実際にともに集まる、ということにはとても大きな意味があります。そこでは、同労者ならではの交わりが生まれます。

 牧師会だけではなく、教師リトリートもコロナ禍で行えなくなっています。私は、団体を超えた教師のリトリートに参加しているので、まったくできていないということではないのですが。こちらはおもに静まりの時を持ちます。

「私たちの人生には、沈黙が必要です。・・・」(ヘンリ・ナウエン、『今日のパン、明日の糧』、69頁)

「スポーツにおける鍛錬は、もっぱら、体を自在に動かすことに専念します。霊的生活においては、神が私たちの主となり、私たちが神の導きに自由に応答することの出来る空間と時間を作りだします。
 したがって、鍛錬とは、神のために時間と空間を空けておく境界を作ることなのです。」(前掲書、93頁)

 牧師や伝道者だけではなく、人間には沈黙が必要なのです。