静まりの時 2022年5月21日(土)
ホセア11・8~11
「エフライムよ。わたしはどうして あなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうして あなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたを アデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたを ツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは怒りを燃やして 再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。」
(ホセア11・8~9、新改訳2017)
ホセアは紀元前730~720年あたりに北王国で神さまの言葉を語った預言者とのこと。神さまを第一としないイスラエル(北王国)に向かって、悔い改めを語りました。神さまはイスラエルに向かって、悔い改めるならば「わたしは怒りを燃やして 再びエフライムを滅ぼすことはしない」と語られました。
新聖書辞典(いのちのことば社)の「北」の項によると、
「次に、北は旧約の歴史書ではイスラエルの北王国を指してしばしば使われた。前722年アッシリヤに滅ぼされた(Ⅱ列15‐17章)が、預言者によってはエフライムと呼ぶ者もいる(イザ7:1‐9等)。捕囚後は移住者と雑婚して、サマリヤ人の地と呼ばれた。」
と記されています。アッシリアに滅ぼされた、とありますが、結局、神さまによって滅ぼされたということです。しかしそうして生まれた「サマリヤ」に、イエスさまは宣教されました。彼らは悔い改め、救いの恵みにあずかります(ヨハネ4・39~42。
「再び滅ぼすことはしない」の「再び」にはどのような意味が込められているのでしょうか。文脈からは、この紀元前722年の敗戦以前に滅ぼされたことがあったが、悔い改めて主に立ちかえるならば「再び」滅ぼされることはない、ということでしょう。あるいは、こののち北王国は滅ぼされるのですが、上記のヨハネ福音書でのサマリアの出来事のときに、もう滅ぼされることはない、という「イエスさまの救い」をいただいた、ということと考えてもよいかもしれません。
いずれにせよ、「再び」ということは、その前提として「滅ぼされた」という経験があるということでしょう。滅びの経験が、救いの経験を最上の喜びの経験とするのです。滅びの経験がない救いの言葉は、喜びを生み出すことがありません。それは十字架のない救いの言葉であって、人を真に生かすものにならないからです。私たちの信じる聖書の神さまは、赦しの神です。あわれみで胸を熱くしておられる神さまです。その愛は自らを十字架の上で滅ぼしてしまわなければいられない愛なのです。
ですから以前にも書きましたが教会生活の中で語られる「赦し」は「許し」ではありません。そこでは罪そのものである自分自身が「滅ぼされる」ということ。すなわち「悔い改める」「方向変換をする」ということがあって、はじめて生まれる救い、その救いこそ喜びの経験となります。
このように悔い改め、方向変換に基く救いは、私たちの人生を軽やかに喜びに満ちたものとします。そこに生まれる信仰生活は、それまでの自己を実現させる、自己の願望を満足させる、という方向から、神さまのみこころに生きていく、という方向に変えられています。たとえ自分の願い通りにことが運ばなくても、そこに神さまのみこころ発見するならば、喜びが失われることがありません。柔らかに神さまのみこころに生かされていく者とされるのです。