静まりの時 2022年2月26日(土)
ルカ20・20~26
「すると、イエスは彼らに言われた。『では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。』」(ルカ20・25、新改訳2017)
律法学者と祭司長たちは、イエスさまを殺すために機会を狙っています。それで「義人を装った回し者」を遣わします。「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すため」でした。そこでなされたやり取りは税に関するものでした。
当時、ユダヤの人びとは、三つの税をおさめなければならなかった、と言われます。ユダヤの王であるヘロデへの税、神殿への税、自分たちを支配していたローマへの税。流通していた貨幣は、ローマのものが主流です。その貨幣には「カエサル、神の子」との銘が刻まれています。まことの神さまのみを礼拝するユダヤの人たちには面白くない言葉です。ですから神殿への税には、この硬貨を使うことができず、わざわざもう使われていないユダヤの貨幣(古銭かな)に両替しなければなりませんでした。それがイエスさまが宮きよめをされたときの両替人の存在ですね。(両替といっても、細かいお金に砕くのでも、お釣りをもらうのでもありません。宮きよめは、当時のかたちばかりの宗教に対する挑戦だったのです。)
さて自分たちの国、宗教への税、それに加えて、ローマにも税を支払わなければなりません。ローマへは「カエサル、神の子」と記されている貨幣で支払います。これが宗教に熱心な人たち、あるいは少し国粋的な人たち、熱心党員という人たちにとっては少なからず問題でした。税なので深く考える必要はなかったのかもしれませんが、彼らにとっては異教の神々の行事の運営費を支払うようなことだったのでしょう。
「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
支払わないでもよいといえばローマに盾つく謀反人とされるでしょう。支払うべきだといえば宗教的な問題を生み出すでしょう。いずれにも答えることの難しい問いでした。
しかしイエスさまは鮮やかにお答えになりました。
「『デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。』彼らは、『カエサルのです』と言った。」
マルコ12章15、16節には
「イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。『なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。』彼らが持って来ると、イエスは言われた。『これは、だれの肖像と銘ですか。』彼らは、『カエサルのです』と言った。」
とあります。つまりやってきた「擬人を装った回し者」は、そのふところにローマの貨幣を持っていたのですね。このような問いをしてはいるのですが、実際はローマに税を支払っているのです。
イエスさまは答えられました。
「すると、イエスは彼らに言われた。『では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。』」
カエサルのものならカエサルに返せばよい。しかしそれ以上に大切なことは、神さまのものを神さまに返すことである、神さまのものを神さまに返すことをせずに、この世でどんな宗教的な潔癖に生きたところで無意味であろう、ということでしょう。どんなに宗教的な戒律に生きることができたとしても、神さまのものを神さまにお返ししていないならば、そこに祝福があるのか、ないであろう、と。
神さまのもの。それは何よりも、私たち一人ひとりのことです。私も神さまのもの、ともに生きる隣人もすべて神さまのもの、その神さまのものを、神さまの御手の中にお返しする、おゆだねする、そうでなければ、どんな宗教的戒律に生きたところで何の意味もない。神さまのものを神さまに返さず、すべて自分の願望のままに支配しコントロールしようとするから人生がうまく行かないのだ、そんなことだから、こうして「回し者」とされるような人生、人に利用されるような人生を送ることになるのだ、人をさばき、陥れることに腐心するような人生に幸いがあるのか。
神さまのものを神さまに返す。それが出来ていないことが、私たちの人生を難しくしているのです。神さまのものを、しっかりと神さまにお返しする今日一日でありますように。
今日は備えの日。明日主の日です。良い備えの一日を送りましょう。
私たちの町の教育員会より、長年ボランティア活動を通して教育振興に貢献した人へ感謝状が贈呈されるということがあり、ミニコミ新聞に掲載されていました。ボランティア活動の内容は、スクールガード、子ども安全リーダー、私立中学部活動始動、読み聞かせなどで、37人とのこと。その中にキリスト者が数人含まれていて、私たちの教会の姉妹の名前もありました。地道な愛の活動に頭の下がる思いです。ますますのご活躍を祈ります。