あなたがたには神の国の奥義が与えられています

静まりの時 2022年2月28日(月)
マルコ4・10~12

「・・・そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。・・・」

(マルコ4・11、新改訳2017)

 イエスさまは多くのことをたとえによって教えられます(2)。ここでイエスさまは種蒔きのたとえを語られました。すると、あとでイエスさまだけになったときに、イエスさまの周りにいた人たちが12人の弟子たちとともに、そのたとえの意味を尋ねたといいます。つまりこっそりと尋ねた、ということでしょう。意味が分からなかったけれども、大勢の人の中では質問しにくかった、ということでしょう。分かっている顔をしていたかったからかもしれません。本当は意味が分かっていないんだけれども、分かっている顔をしている、ということは誰でも経験があるのではないか、と思います。私なんか、宣教師の先生方が英語で話されているのを、本当はちっとも意味が分かっていないのに、英語のよくできる先生がうなづくタイミングに倣って、ふむふむとうなづいていたりなんかしたものです(笑)。
 たとえによって教えられた、というと、やや抽象的で高尚な真理を、庶民にもわかりやすく教えてくださった、と理解したいところですが、聖書の語るところはその逆のようです。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです」。つまり外の人たちには、神の国の奥義が与えられない、だからすべてがたとえで語られるのだ、と。ここでたとえは、分かりやすくするためではなく、分かりにくくするため、覆いをかけるためである、と言われたのです。驚くべきことです。

 奥義。原語のギリシャ語では「ミステリオン」。ミステリーの語源になった言葉です。ラテン語ではサクラメント。
 奥義は、一般的には「おうぎ」と読むことですが、聖書では「おくぎ」と読ませています。ちなみに正教会では「機密」と訳されています。なかなか面白い言葉です。いずれも大切な意味を持たせているようですね。

 聖書はすべての人の救いを語ります。しかし昨日の礼拝でも学びましたように、救いには信仰が必要です。信仰が必要というと、結局のところ条件付きではないか、という人がいますが、信仰というのは条件というよりも、一方的な神さまの愛の奇跡を受け入れる心、あるいはその愛の神さまにすべてをゆだねる私の方の愛、ということではないかと思います。つまり自分の側の努力目標というのではなく、神さまの愛の促しに心が柔らかくされる、という感じです。
 例えば、お腹がすいている時に、目の前に美味しいご馳走が並んでいます。それを食べると空腹が満たされ、身体に栄養が回り、生きる力が湧いてくる。しかしそれを実際に手に取って、口に運び、咀嚼して飲み込む、ということが必要だ、というとき、その食べるという行為は、生きるための条件というよりも、むしろ食べたいという希望ではないかと思いのですが・・・。よけい分かりにくいこととなってしまいました(笑)。

 さてこの奥義(ミステリオン、サクラメント)は、プロテスタントでは洗礼と聖餐の二つとしています。すべての人に開かれていますが、洗礼についても、聖餐についても、信仰が問われます。聖餐については洗礼を受けた者しか受けることが許されません。これを差別とか言われて非難されることがありますが、「外の人たち」との区別が明確にすることには、信仰的な意味があります。
 「自分には信仰があるだろうか」と自らを吟味することの根拠は何か。自分の信念や信じる力は根拠になるのだろうか。自分が罪びとである、神さまの前に確かな存在ではない、ということを知ったキリスト者には、あやふやな自らのうちに信仰の根拠をもつことが不可能なはずでしょう。ですから信仰の根拠を自分の外に持つ。それは一体何か、といったとき、この場合は洗礼に根拠をもつ、ということでしょう。洗礼は、自分ではない他者である牧師が、教会という共同体において、時と場所をもってなされた一回限りの歴史的な出来事です。たとえ自分が感情的にも論理的にも忘却してしまったとしても、その歴史的な出来事は揺るぎません。そこに自分の信仰を発見するのです。これが吟味するという意味でしょう。
 ですから自ずと未受洗の人と受洗者とは区別されて、受洗者のみの陪餐となるのが聖餐式です。繰り返すようですが、これは外の人を差別しているのではなく、自分たちの信仰の根拠を確かにしているということですから、どうしても大切にしなければならないことなのです。そうでなければ、これはただの儀式となり、いつか命が失われ、パウロが言うように「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」(第一コリント11・29,30)というような事態を招くこととなると教会は信じたのです。パウロは決して独創的なことを語っているのではありません。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました」とパウロは語りました。

 とはいえ「外の人」もやがて「内の人」となることを、キリスト者は祈っています。熱く祈っています。もし未受洗の方がおられるならば、教会の牧師に相談して、ぜひ洗礼の恵みにあずかってください。そうしてともに聖餐にあずかる仲間になりましょう。

 土曜日にウォーキングに出たとき、あぜ道にオオイヌノフグリの群生を見ました。枯草の中に薄青の宝石がちりばめられたようで、春の風とともに明るい気持ちになりました。
 この大きな声では言いにくい名称は、在来種のイヌフグリに似た花だったということで命名されたそうで、学術名から連想された花言葉は、「忠実」「信頼」「清らか」だそうです。学術名から連想されたものとは「聖女ベロニカ」。イエスさまの十字架への道で、イエスさまの額の汗を自らのヴェールで拭ったとか。カトリックと正教会で聖人とされているそうです。ベロニカという名前の花はまた別にあるそうですが、この宝石のような可憐な花には、もう少し別の名前を付けてあげた方がよかったかもしれません。

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