イエスは、船尾で枕をして眠っておられた

静まりの時 2022年2月24日(木)
マルコ4・35~41

「ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。」
(マルコ4・38、新改訳2017)

 種蒔きのたとえ話の後に、嵐を静めるイエスさまの奇跡が記されています。
 夕方になって、イエスさまが「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに言われ、弟子たちはその言葉に従い、群衆がまだそこにいるにもかかわらず、その群衆をあとに残して、イエスさまを船に乗せたまま、出発しました。聖書には「弟子たちが・・・お連れした」と書かれています。弟子たちの中には漁師も幾人かいました。弟子たちが舟の舵を握り出発したということでしょう。出発するとまもなくでしょうか、嵐に出会います。舟は水でいっぱいになり沈みそうになります。ふと船尾を見るとイエスさまは眠っておられました。しかも枕して眠っておられたと聖書は記します。多少揺り動かしたぐらいでは起きることがないほどに、ぐっすり眠っておられたということでしょう。
 それで弟子たちはイエスさまを起こします。そして言いました。
「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」。
 イエスさまは起き上がって下さり風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。するとすっかり凪(なぎ)になりました。嵐は静まったのです。イエスさまは弟子たちに言われます。「どうして怖がるのか、まだ信仰がないのか」。
 弟子たちは非常に恐れます。何に恐れているのか。さっきまでは嵐に対して恐怖していたのかもしれません。しかし今は風や湖まで言うことを聞くこの方はいったいどなたなのだろう、と畏れました。
 イエスさまが嵐を静める姿を目の当たりにして弟子たちは恐れました。風や湖がイエスさまの言うことを聞いたことで恐れたのです。つまり船尾で眠っておられたイエスさまを起こしたときには、イエスさまが嵐を静めてくださるお方である、ということを信じてはいなかったのです。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」とは信仰の言葉ではなく、ただの不満のことば、あるいは非難の言葉なのだということです。ですから嵐を静めた後に弟子たちに向かってイエスさまは「どうして怖がるのか、まだ信仰がないのか」と語られたのです。
 驚くべきことは、信仰なく、半ば非難めいてイエスさまを起こした弟子たちに、イエスさまは嵐を静めるという奇蹟を起こしてくださった、ということでしょう。
 信仰は大切なことです。信仰によって奇跡が起こるということは、理解しやすいことです。しかし私たちの信仰という行いに対して、神さまは答えてくださるというのではありません。それでは私たちの方が神になって、神さまを私たちの使用人や道具としてしまっているということでしょう。
 信仰とは信じて仰ぐと書きます。私たちの不信仰を超えて、ひたすらイエスさまを仰ぎ見、このお方にすべてをゆだねることです。ここでは弟子たちの不信仰にもかかわらず、弟子たちの必要に答えてくださるイエスさまのお姿が鮮やかに記されているということでしょう。奇跡はことごとく神さまが主権をもって起こしてくださることなのです。

 さて、嵐の中、舟が水でいっぱいになっているにもかかわらず、イエスさまは船尾でぐっすり眠っておられた、といいます。水浸しなのだから、そんなところで眠り込んだら溺れてしまうのではないか、と私なんか想像していまうところです(笑)。しかしそこまで深く眠る、激しく眠る、つまり絶対的な平安をお持ちになっておられる、それがイエスさまである、ということでしょう。嵐にあっても、弟子たちは、激しく眠っておられるイエスさまのお姿を見ながら、自分たちなりに舟を漕いでいればよかったのかもしれません。
 嵐の中にも、激しく眠るイエスさまが共にいてくださる。どんな嵐の中にも、絶対的な平安をもってともにいてくださるイエスさまがいてくださる。なんと幸いなことでしょう。人生、嵐の中、水浸しの中でもよいではないでしょうか。漕ぎあぐねてちっとも前に進まなくてもよいではないでしょうか。今日も笑顔で人生の舟を漕ぎましょう。