いのちを救うことですか

静まりの時 2022年2月23日(水)
マルコ3・1~6

「・・・『安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。』彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。・・・」

(マルコ3・1~6、新改訳2017)

 ある安息日に片手の萎えた人をイエスさまはおいやしになりました。それにより、またそのことからのイエスさまの態度により、普段は敵対していたパリサイ人とヘロデ党の者たちが一緒になってイエスさまをどうやって殺そうかと相談をはじめました。イエスさまが十字架につけられることとなった原因は、神さまへの冒とく罪と言えると思いますが、その実はときの宗教家や為政者たちの反感によるものとも言えるでしょう。
 安息日を守ることは、神さまを大切にすることであり、その神さまを大切にすることそのものがまた互いを大切にすることへと豊かに実を結ぶ、そんなあたたかい戒めでした。しかしその戒めが、いつの間にか善ではなく悪を行うこと、いのちを救うことではなく殺すことになってしまっていた。なるほどパリサイ人は聖書の言葉の文字通りに生きていたかもしれません。しかし聖書のこころに生きていたのか、と問われるとどうもそうではないのではないか。イエスさまは本当に聖書の言葉に生きることを取り戻そうとしてくださった、それは聖書のこころに生きることである、神さまを愛し隣人を愛する、それはまことの善に生きることであり、いのちに生き、またいのちを生かすことであるはずだ、と。
 反感に満ちて黙するパリサイ人たち。その姿にイエスさまはお怒りになります。そしてその心の頑なさを嘆き悲しまれました。自分たちの主張や考え方に反する意見や態度に出会うと、人はその心を頑なにします。宗教に生きる、より純粋に生きるということが、心を頑なにすることとなっている。本来信仰に生きる、愛に生きる、ということはこころやわらかく生きることではないか。それがまったく違った生を生み出している。そのような生き方に神さまはお怒りになるとともに、嘆き悲しまれます。心頑なな人生を歩むことは、幸福なことではないでしょう。不幸の中にある人間を、神さまは嘆き悲しまれるのです。その嘆き悲しみは、十字架への道につづきます。主イエスさまは頑なな私たちが、柔らかい心に生きることができるようにと十字架への道を進まれます。私たちは、主の十字架を仰ぎ見て、心やわらかくして生きる道へと招かれます。