静まりの時 2022年2月22日(火)
マルコ2・23~28
「・・・そして言われた。『安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。』」
(マルコ2・27、28、新改訳2017)
ある安息日に、イエスさまが麦畑を通っておられました。お伴をしていた弟子たちは、
よほどお腹がすいていたのでしょうか、道を進みながら麦の穂を摘み始めました。それを見たパリサイ人たちがイエスさまに問いかけます。「なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」。安息日にしてはならないことはたくさんあったようですが、その一つが麦を収穫するという労働であったということでしょう。それを弟子たちが行っているのをパリサイ人たちが目撃したのです。その奇異な行動、あるいは挑戦的な行動、しかしもしかしたら何も考えていなかった行動、をパリサイ人たちは重大な宗教的規範の侵害であると感じ、この弟子たちの主人であるイエスさまに問いかけたのです。
するとイエスさまは旧約聖書に記されているダビデのことを引用して、弟子たちの正当性、あるいは弟子たちの行動を容認する道を明らかにしてくださいました。弟子たちを守られた、といってもよいかもしれません。まことにお優しいイエスさまの姿を見ます。
安息日は、そもそも人のため、人間のために造られたのである、人間が人間として健やかに生きるために、また人間どうしがともに豊かに生きるために造られたのである。安息日のために、安息日をとにもかくにも守る、厳守するため、安息日を成り立たせるために、人間が造られたのではない、と続いて言われました。宗教的な戒律だけでなく法律や規則のことを考えても、このイエスさまのお答えをあてはめることができるかもしれません。
そして最後に「ですから、人の子は安息日にも主です」と言われました。
安息日は人のために設けられました、ですから、人の子、すなわちイエスさまは、この安息日にも主です、と言われたのです。この「ですから」は大切な言葉です。もしかしたら、安息日は人のために設けられた、しかし、人の子は安息日にも主です、と読んでしまうかもしれませんが、聖書はそのようには記していません。安息日は人のためにもうけられた、だからこそ、人の子は安息日の主なのだ、と言われたのです。
つまり安息日がまことに人のためとなる、そのためにこそ、イエスさまが安息日にも主となって下さったのだ、安息日にこそイエスさまを主とすることによって、人間は本当に安息日を、人間のための安息として過ごすことができるのだ、と言われたのです。パリサイ人たちが安息日を大切にしようとして、そのために造られた細かい規定を、しっかりと守ろうとすることは、安息日にイエスさまを、神さまを神さまとしていないからである、ということでしょう。
日曜日に礼拝をささげることは、イエスさまを安息日にも主とすることです。日曜日は安息の日なのだから、自分の好きに過ごしたい、ちょっとイエスさまには奥に引っ込んでいてもらおう、といって、自分の自由に歩むことは、本当の安息を生きることになりません。何もしないこと、自分の自由にすることが、人間には本当の安息をもたらさないのです。イエスさまに主となっていただく、イエスさまを主とすることでこそ、私たちは本当の安息に生きることができるのです。