花婿が一緒にいる間は、断食できないのです

静まりの時 2022年2月21日(月)
マルコ2・18~22

「さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。』イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。・・・」

(マルコ2・18~20、新改訳2017)

 人びとは、イエスさまの弟子たちを見て、一つのことに気づきました。イエスさまの弟子たちは、どうやら断食をしている様子がない、と。信仰の道に生きようとするならば断食するのが通例である、しかしイエスさまやその弟子たちは断食をしていない、断食をしている姿を見たことがない、これは奇異なことである、一体どういうことなのだろうか、と。
 キリスト者の生き方の新しさとはなにか。その新しさが、ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちとの比較を通して鮮明にされます。ここでは、花婿と一緒にいる間は断食しない、しかし花婿が取り去られるときが来る、その日には断食する、と語られているのです。
 花婿が取り去られる日、それはなによりも主の十字架の日、ということでしょう。その日には断食する、しかしそれ以外の時は、花婿である主イエスさまはともにいてくださる、だから断食しないというのです。
 断食とは、そもそもは悲しみの表現でした。何を悲しむのか。それは何よりも自分の罪を悲しむのです。それがさまざまなものの悲しみにおいても断食をするようになり、果ては祈りに心を注ぐために断食をするようになります。言葉は悪いのですが、ハンガーストライキのような断食まで行われるようになりました。ここでイエスさまは、断食の本来の意味を確かにされているのだと思います。それでキリスト教会は断食をあたらめて大切に考えるようになりました。

 この春のイースターは4月17日です。それに先立ち受難週がありますが、そのさらに前に灰の水曜日と呼ばれる日があります。四旬節第一に日曜日前の水曜日で、今年は3月2日になるようです。もともとは「公けの悔悛者が、四旬節の初めにー本来は四旬節第一日曜日後の月曜にーエデンの園からのアダムとエバの追放に倣って教会から追放され」(ビーリッツ、『教会歴』、127頁)その「悔悛者たちは、支給された苦行衣をつけ、昔から悔い改めの象徴であった灰を、振りかけられねばならなかった」「四旬節の始まりを、四旬節第一日日曜日前の水曜日に定められた時から、この儀式は灰の水曜日に定着した」(前掲書、同)とのこと。
 「おそらく悔悛者だけではなく、それ以外の信徒たちも、悔悛者たちへの連帯の思いから、灰の水曜日の儀式に次第に参加するようになる」、その後「この灰をかけるという習慣だけが残った」「すべての信徒は、この儀式に参加し、女性は額に灰で十字架を記す。用いる灰は、12世紀以降、前年度の枝の日曜日の枝から取り、祝福したのである」(前掲書、同頁)ということでした。なんで女性だけが灰のしるしをつけられるのか、という突っ込みをしたいところですが。
 このイースターまでの40日を断食習慣としたのですね(40という数字は聖書の中のさまざまなところに登場する数字です)。ですから灰の水曜日の前にカーニバル(謝肉祭、肉よさらば~)があります。
 ここでカレンダーをみて灰の水曜日からイースター(4月17日)までの日数を数えると、実際は46日あることが分かります。しかしそこからこの期間の日曜日の6日を引き算すると40日になるのですね。つまり断食習慣であっても日曜日は断食しないのです。
 まあ断食といっても、完全に食を断つということもあるかもしれませんが、多くは何かを自制するということだそうです。ある人は、この期間はチョコレートを自粛しました、などといっておられました(笑)。

 断食は、信仰の世界では当たり前なのです。しかし数ある宗教の中で、キリスト教だけは断食しない、そのことでこの世に驚きを与えたのです。今日のキリスト教会は、断食しないことで、この世に驚きを与えているであろうかと考えさせられます。カーニバルは、上記の説明によるとあまり信仰的な行事ではありませんが、あの華やかな雰囲気は、あんがい断食しないというキリスト教の独自性が現れているのかもしれません(笑)。娘の一人が青年海外協力隊で南米エクアドルに駐在していた時に、カーニバルに少し連れて行ってもらったそうです。ラテンののりに溢れた楽しい時だったそうですよ。

 今は感染症で、日曜日の礼拝後、また週日の食事を伴った交わりが出来ない状況ですが、それは仕方のない事ですが、しかし食器の音と笑い声が聞こえて来るところ、それが教会であってほしい、と思います。