クリスチャンになったとき・・・私は自分なりにひとりでやっていこう、自分の部屋に退いて神学の本を読めばいいのだし、教会にも、伝道集会にも行くまいと考えていました。しかし後には私は、教会に出席することこそ、自分の旗印を鮮明にする唯一の方法なのだと気づいたのです。・・・新約聖書のうちに律法に近いものがあるとすれば、それは、信ずる者は聖餐にあずかる義務をもっているということです。そのためには教会に行かなければなりません。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、312頁
2019年8月9日(金)
礼拝には二つの中心があり、そのひとつはみ言葉の時であり、もう一つは聖餐です。ですから週の初めの日である日曜日には、かならずみ言葉の時と聖餐の時をもって礼拝をささげるべきです。
聖餐の時は、ひとりでは不可能です。教会の交わりの中にあって持つことができます。それに対してみ言葉の時はもしかしたら独りでも持つことができると考えやすことですが、しかしみ言葉の時も聖餐と同様に独りでは不可能なのだと思います。み言葉の時が十字架と復活の宣教であるとすると、それは愛することの教えですから、独りで実現可能なわけがありません。共同体の中に身を置かなければ不可能なのだと思います。キリスト教信仰においてともに集うことは、聖なる義務です。
「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」(使徒20・7)