礼拝の形式がきまっていることでいいのは、次にどういうことがあるか、あらかじめ予知できることです。公の席での即席の祈りには、祈りの言葉を聞くまでその祈りに心のうちで参加できるかどうか、わからないという問題があります。
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定まった形式の場合にも、記されている文言を個人的な祈りにおいてまえもって唱えてみるべきでしょう。形が決まっていると、かえって自由な気持ちで祈ることができます。むしろ、きっちり形が決まっていればいるほど、気が散らずにすむようです。それはまた、たまたま心を占領している問題(戦争、選挙、その他)が祈りのうちに侵食することを避けさせてくれます。キリスト教の永遠的な形がおのずと見えてくるのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、312-313頁
2019年8月10日(土)
形式的なこと、儀式的なことの中には自由に働かれる神さまの力がないとして、自由な形を求めると、かえって不自由になるものです。夏休みの自由研究は、かえって何をしていいかわからず結局「不自由研究」になってしまいます。形が決まっているということは、自由なことなのです。
礼拝において神さまにお出会いしたいと願っています。ですからそこではできるだけ人間的なものを取り除くことが良いと思います。自由な祈り、自由な発言は、人間的なものが見えてしまい、神さまを隠してしまうような気がします。司会者もたんたんとプログラムを進めて行くのがよいように思います。
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とイエスさまは勧められました。個人的な祈りの時の教えだと思いますが、それだけではなく、公の場での祈りにおいても、「隠れたところにおられる」神さまに祈ることができるような配慮が必要でしょう。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6・6)