空虚であればあるほど、透過性がある

十字架像が存在するのは、信徒の思いと愛を主の受難に向けさせるためです。十字架像は人々の注意を像自体にひきつけてやまないようなすばらしさ、精巧さ、独創性をもたないほうがよいのです。敬虔な人々はこの目的にかなうように、粗雑な造りの、むしろ空虚な印象のイコンを好むかもしれません。空虚であればあるほど、透過性があるわけで、信徒はいわば形あるイメージにすぎぬイコンを通りぬけて、そのかなたに至ることを願っているのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、309-310頁

2019年8月7日(水)

プロテスタントのなかには、像やイコンを偶像礼拝として避けるグループも多いのですが十字架だけは置かれているのではないでしょうか。プロテスタントの教会にある十字架にはキリスト像のついていないラテン十字が多いようですが、十字架も十字架増もそのデザインにはいろいろあるようです。おそらく十字架を偶像として拝んでいるキリスト者はいないのではないかと思います。「空虚であればあるほど、透過性がある」のですね。さまざまなデザインの可能性を学んでみたい気がします。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12・2)