内側に入ったことがあるからです

たとえば生理学者は痛みについて研究し、それはこれこれしかじかの、無色の(無色のとはどういうことを意味するかはともかくとして)出来事だと理解しているでしょう。しかし実際に苦しむことによって痛みの内側に入らないかぎり、痛みという言葉はその生理学者にとって何の意味ももたないと思います。・・・外側からする研究の対象が彼にとって存在するのは、、少なくとも彼が一度は内側に入ったことがあるからです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、304-305頁

2019年8月3日(土)

神さまが愛であるということは、主イエスさまにおいて完全に明らかにされました。神さまが私たちの痛みをだれよりもご存知であるということは、主イエスさまの十字架において明らかにされました。神さまが死を打ち破って下さったということは、主イエスさまの復活において明らかにされました。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言う者がいた。」(マルコ15・34-35)