こわれた人形を抱いて泣いている小さな女の子は、大切な友だちを失った悲しみに暮れています。しかし児童心理学者はその子のうちに芽ばえかけている母性本能が、人の形にかたどられ、彩色された蠟のかたまりに一時的に注がれたのだと説明してのけるでしょう。
・・・
こうした相違に気づくやいなや、一つの問題が明らかとなります。人が何かをそれにそって眺めるときにおのがものとする経験は、それ自体を眺めるときの経験とはまるで違うのです。どちらが真実の、あるいは意味のある経験でしょうか? どちらが対象そのものについて、多くを告げるでしょうか?『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、302-303頁
2019年8月2日(金)
キリスト教について知りたければ、キリスト教信仰に篤く生きる人に学ぶことが大切なことだと思います。聖書やキリスト教についての知識がいくら多くもっていても、キリスト教信仰に生きていないならば、そこにはキリスト教についての真実をしることはありません。仏教や神道、その他の宗教についても同じです。
そうであれば、自分の信奉している宗教をもちつつ他宗教について批判をするということは、その他宗教を本当には知らないのにもかかわらず批判するということですから、そこには多くの問題が含まれていることになります。
また他の宗教への批判によって自分の宗教の優位性を主張しようということは、自分の宗教に対する価値観が、他の宗教への批判によって成り立っているということですから、結局のところ自分の宗教そのものへの価値観となり切っていないことになります。そのような信仰は確かなものであるとは言えないのだと思います。
ですからキリスト教信仰に生きるということは、この信仰との出会いの不思議に感謝しつつ、ひたすらキリスト信仰に生きるということでしょう。また他の伝統宗教の中にも学ぶべきところを発見しつつ、その宗教の方々ともともに平和に生きて行くということではないかと思うのですが。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4・12)