しかし神が助けて下さる

こうした悔改め、屈辱と一種の死をこのように進んで受けいれるという態度は、神があなたを取りもどすために要求される条件ではありませんし、神がその気になられればそうした悔改めなしにあなたを放免なさるということもありえないのです。
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さて悔改めを通らなければいけないということはわかりました。けれども私たちに悔改めを必要とさせている罪が、同時に悔改めを不可能にしているのです。では、神が助けて下さるなら、それは可能でしょうか? そう、確かに。しかし神が助けて下さるとはいったい、どういう意味でしょう?
それは言ってみれば、神が私たちのうちに、神御自身の一部を投入してくださるということです。たとえば、神が御自身の推理力の一部を私たちに貸して下さるから、私たちには考えることができるのですし、神が御自身の愛の一部を注いで下さるから、私たちは互いに愛しあうことができるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、77f頁

2019年2月21日(木)

悔改めは救いのための条件であるのか、それとも条件ではないのか。
罪びとである人間は悔改めることができるのか、それとも罪びとであるということは悔改める力がないということなのだから、やはり悔改めることはできないのか。
悔改めるといことは「神さまのもとに帰るということがどういうことであるかを説明している言葉にすぎない」とルイスは語っています。いくら悔改めるということがどういうことかという理屈が理解できても、悔改めるといこと自体ができないならば、何の意味もありません。
悔改めを可能にしてくださるのは、神さまご自身です。神さまの愛と憐れみ、恵みによって私たちは悔改めることがはじめてできるのです。そうすると少しでも悔改めに生きているとするならば、そこに神さまの全能の御手が働いているのです。

「神にできないことは何一つない。」(ルカ1・37)
「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」(1ヨハネ4・15)