「ああ活歴史を知る者夫れ誰ぞや。生命なる活歴史を知れる者古より夫れ誰ぞや、生命の歴史は新人に在りて必ずしも文書に在らず。文書存すと雖も其人有るに非ざれば、其真意伝ふべからず。生命は必ず其人に在りて、其人の外に非ざればなり。故に其人を得て其真斯に伝はる。然れども此の世の不幸なる、能く是の道を伝ふる者、古より蓋し数世相継いで出でざるなり。」

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「ああ活歴史を知る者夫れ誰ぞや。生命なる活歴史を知れる者古より夫れ誰ぞや、生命の歴史は新人に在りて必ずしも文書に在らず。文書存すと雖も其人有るに非ざれば、其真意伝ふべからず。生命は必ず其人に在りて、其人の外に非ざればなり。故に其人を得て其真斯に伝はる。然れども此の世の不幸なる、能く是の道を伝ふる者、古より蓋し数世相継いで出でざるなり。」

新井奥邃、『聖言』、219

「活きた歴史を知る者はいったい誰であろうか。いのちである生きた歴史を知る者は、古来よりいったい誰であろうか。いのちの歴史は、新しい人に存在するのであって、必ずしも文章に存在するものではない。いくら文章が存在していたとしても、その存在がないのであれば、その真実の意味は伝わらない。いのちは必ずその人に存在する。その人の外に存在するのではない。よってその人を自分のものとして、はじめて伝わるのである。しかしこの世の不幸は、優れてこの道を伝える者が、古来よりまさしく何代にもわたって出現していない。」

信仰の道、倫理の道、十字架の道、それらを伝えるのは文字ではなく人です。文字は大切なものですが、それだけでは伝わらないのです。
それを実践する人によって伝えられるのです。
どれだけ文字の知識を得ているかではなく、どれだけ生きているか(実践しているか)が大切なことです。

〔聖書の個所〕
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(ローマ2章28~29節)

しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
(ローマ7章6節)

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
(第2コリント3章6節)

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
(エペソ4章22~24節)

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