福祉活動(デイアコニー)は社会的使命である

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〔仕える教会〕

2015年5月13日(水)

困窮者たちに人間存在全体における生活援助を行うという教会の特別な使命は、長い目で見て、個々人の苦悩がただ単にというより、実は広く決定的に、人間の共存全体の特定の無秩序に根差しているということ、教会の援助活動は特定の点で社会的、経済的、政治的情勢次第ではその限界に突き当たり断念せざるをえないということとを、教会は認めていなければなりません。
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教会あの無秩序に至った人間社会の一部ではありませんか。
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国のほとんど食い止め難い発展が、多少の差はあるにせよ著しい全体国家に、従ってまた「福祉国家」になるにつれ、かつて福祉活動(デイアコニー)(ローマ教会圏では慈善(カリタス)とよばれた)に属していた使命を、ひとつまたひとつ国家が引き受けることになっており、しかも国家はかつての学校のように、今では福祉活動を概念の最も遠い意味で自らのことにしている、ということです。・・・国家の豊かな権力と資力をもって整え、可能な限りすべての周知のそして公然の悲惨な状況を包括して、あらゆる社会的保障と社会的援助という、比類なくずっと効率的に作用する装置一式に変えてしまうという事態となっているわけです。

キリスト教の福祉活動はそれにより仕事を失うでしょうか。それは遅かれ早かれ吸収されなければならない役に立たない地位を、辛うじて保つだけなのでしょうか。否と言わなければなりません。
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自らのさまざまな悪を肉体的物質的観点の下でのみ、従ってただ部分的に取り組もうとする国家的援助は、問題であるはずのことすら成し遂げることはできません。
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自由な奉仕よりむしろ自分の課題を果たす役人の機能であるだろうことによっても、脅かされているでしょう。自由な奉仕こそが人から人への本来の援助活動の確信を形作るものです。
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国家的援助自身に、教会の援助活動が自らの枠内でその特別な意味で活動に適した人びとを自由に提供することで助けに馳せ参ずること、それが結局キリスト教の福祉活動の問題ではないでしょうか。それら一切が合わせて行われるならば、近代の福祉国家はキリスト教の福祉活動を余計な不要物にするなどとは、きっと考えもつかないでしょう。

                                 カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
   小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、275ff。

福祉活動は教会の生命線なのですが、現代は国家がそれを大変効率の良い方法で行うようになりました。これは素晴らしいことです。しかしそれで教会の福祉活動における役割は終わったのでしょうか。そうではない、とバルトは語ります。
国家が行う大変効率の良い福祉活動のために、その人材を教会が送り出すこと。それが教会の大切な使命となるとバルトは語るのです。

キリスト者の政治家、キリスト者の法律家、キリスト者の医者、キリスト者の公務員、警察官、消防署員、教師、などなど。それが福祉活動に目をつぶらない教会のあり方であるというのです。

そうして、国家的な福祉活動のなしえないことを教会はなすことを使命としています。

(祈り)
神さま、この世に仕えさせてください。

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