〔フィリピの信徒への手紙のキリスト賛歌〕
2015年4月23日(木)キリストは全く神と等しくあられるので、神と等しい自分の存在を決して懸命な主張対象とする必要はありません・・・
たとえば二人の恋人が本当に互いのものになるにつれて、二人は互いを失う怖れなく、自由に与え合うことができます・・・
神の御子は父と等しくあることを、放棄し、断念するのではなく、自由になさるのです。・・・
神と等しくあられるキリストは、それを主張し、それにしがみつく必要はなく、この存在に相応した出現と重きをなすことをも断念なさることができます、この存在を放棄することなく、無論それをこのまま貫き通すために。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、234ff。
人は常に何かに固執しています。あるいは固執しないと生きてけません。しかしその固執することが、生きることを難しくしていきます。
愛の関係におかれると、固執から自由に与え合う生き方に変えられることがあります。そこには生きることの喜びが生まれます。
固執しない生き方。それはいたずらな放棄ではなく、自由な生き方です。
それは存在の土台の確かさによって生まれます。
神さまに愛されているという変わることのない土台をいただくならば、自由に与える生き方とされ、生きることの喜びが生まれるのです。
イエスさまは、固執されないお方として私たちの所に来てくださいました。
(祈り)
神さま、与える自由に生きる者と作り変えてください。
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