「(キリストが)現れた」。コリントの信徒への手紙第1 15章5,6節

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〔教会の基礎づくりとしての復活の福音〕
2015年4月15日(水)

福音書自身は、空の「墓」を見ることと、「甦った者」を見ることは全く別であった、ということを少しも隠していません。
・・・
イエスの復活を主張するこの「実証派的」方法も、「神」の業としての復活をまさに主張しようとするものの密かな否定ではないでしょうか。その復活はいかなる目も見ず、いかなる耳も聞かず、いかなる人の心にも入って来なかったのです、外面的にも内面的にも、主観的にも客観的にも、神秘的にも、心霊術的にも、明白な歴史的にも入って来なかった、そうではなくて歴史的な神のなさった事実として、それはかかるものとして啓示の範疇の中でのみ把握されうるのであって、他のいかなる範疇の中でもとらえられないのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、220ff。

イエスさまは私たちの歴史の中に入ってきてくださいました。それは別の言い方をすると、神さまの歴史の中に人間を呼び戻してくださったということではないかと思います。
本来神さまがお始めになった歴史の中に、神さまが人間を造り置いてくださったのです。しかし人間は、自らの造り主である神さまを追い出してしまい、自分たちの歴史のようにしてしまいました。そんな迷い出た羊のような人間をもう一度、ご自身の歴史の中に呼び戻してくださった、招いてくださったのです。

復活は「啓示の範疇の中でのみ把握されうる」のです。目に見えるものだけではなく、目に見えないものを見ていかなければ見えないものです。神さまからの一方的な恵みがなければ見えないものです。信仰がなければ見えないものなのです。

(祈り)

神さま、復活の希望をいただきまことに感謝します。

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