「大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか』。イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです」。 マタイによる福音書26章63,64節

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〔イエスのご受難の前にある人間〕
2015年3月31日(火)

イエスは、大祭司に断固として、あなたは真実を語った、と認めました。
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この約束は無条件に有効です。大祭司が唇だけで真実を語ったと伝えられる場合にも有効です―イスラエルがその歴史のこの最後の最高の時にも、もう一度イエスの約束に賛成でず、むしろ反対の決断をしようとするこの場合にも有効です。
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そして今、次の瞬間ただちに、イエスが「拒否される」だろうということが生じます。
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イスラエルがなおこの瞬間に、最も信頼すべき者の口を通して自らの王その方を是認し、認めることができたはずの大いなる機会がそこにありました―しかしあっという間もないその時すでに、みすみす、軽率にも失ったのです。
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イスラエルによって追放されるということをもって、訴えられたものからその訴える者となる王であります。つまり、彼らはイエスを見るでしょう―まさに彼らにより排斥され、死に渡された者なのに実は彼らの計画と意思に反して「勝利を収める者」なのであり、彼らがその責めを負うその死を克服する方なのだと見て取るでしょう。
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人間の、時間の、悪い意志と計画にだけではなく、むしろまず、神の永遠の、良き意思と計画において想定され決定されていたのは、この時間の決定は、それがくだされたようにくだされなければならなかったこと、そこでイエスの最期の申し出は断られ、イエスはまさに「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」なければならなかった(マタイ16章21節)ことです。―イエスが彼らの手にあるのではなく、彼らがイエスの手の中にあります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、182ff。

私たちは、神をさばくということをして、その実はさばかれています。

人間同士の関係においても、相手をさばく、ということをして、その実、さばかれているということがあります。

相手が自分の手の中にあると思っているけれども、自分自身が相手の手の中にあるということがあります。

もし、この支配から自由になりたいとするならば、ゆるすことです。自分の手の中から、相手を解き放つならば、自分自身が自由になるでしょう。

おおよそ人間関係において言えることだと思います。

しかし神さまとの関係において、神さまをさばくこと、さばこうとすることによって、自らがさばかれるという事態は特別です。それは決定的なことだからです。
神さまにさばかれるのです。

私たちも大祭司のように神さまをさばきつつ生きてきました。十字架を見上げるごとにそのことを知ります。

しかし十字架が真の神の死であることはさらに特別です。それが神の永遠のご計画であったこと、そしてそこにこそ、神の愛の現れがあったこと。神の完全な愛が現わされたこと、を知ります。
つまり十字架を見上げるごとに、神の愛を知るのです。

神がいのちを捨てるほどに、私を愛して下さったこと。そして私たちを愛してくださったことを知るのです。

神をさばく罪びとである私は、私をもさばきます。しかし十字架を見上げるごとに、神がさばき主であることを知り、その神が私をさばかず、その真実の愛に出会います。

(祈り)

神さま、十字架において完全なさばきを受けてくださったイエスさまの愛を感謝します。

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