〔イエスのご受難の前にある人間〕
2015年3月30日(月)キリスト者が苦難というあまり素晴らしくない別な添え物を我慢しようとしないことで、この任務が無になってしまえば、その時はキリスト者が内面性という島国の中で大事に保持したいと思うものも、必ずやなくなってしまいます。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、180ff。
ペテロは、自分がキリストの弟子であるということを否定したことで、すべてを失ってしまいました。
自分がキリストの弟子であるということを明らかにしたならば、すべてを失ってしまうと恐れたので、否定したはずです。すべてを失うまいとして、自分がキリストの弟子であるということを否定したのに、すべてを失ってしまったのです。
キリスト者は、自分がキリストの弟子であるということを表明することによって何かを失ってしまうかに見えても、一番大切なものを失うことはありません。むしろ否定することによって、最も大切なものを失ってしまうのです。
それにしても、このペテロ。自分の絶望して激しく泣くと同時に、聖書は「イエスの言葉を思い出した」ので激しく泣いたと伝えます。たとえみな者が裏切っても自分は決して裏切らないと言い張るペテロに、鶏が鳴く前に三度知らないというといわれたイエスさまの言葉を思い出して泣いたのです。それは、自分が裏切る者であることをご存じで、なお変わらない愛を傾けてくださった主への新たな出会いを経験したことだったのではないでしょうか。
神さまの愛は無限の愛です。
(祈り)
神さま、十字架にかかるほどの神さまの愛が私にも向けられていることを感謝します。
コメントを残す