〔「ついて来なさい」との呼びかけ〕
2015年2月23日(月)神への愛は要求されうるものであり、すでに神に属する者に対して要求されています。
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義務が私たちに課されんがために、私たちは実際「キリストにつながる」必要があります。すなわち信仰においてキリストにあって神に愛された者であらねばなりません。
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義務は神の命令であり、従って神から私たちの心に入れられて、心に独自のものとなり、神の神性において喜ばしい命令となります。だが「厳しく」そして「重い」のは、義務もしくはその実行ではありません。そうではなくて厳しく重く、不可能で不合理であるのは、「キリストにつながっている」人びとにとって、自らの存在を否定せざるをえないような自らの不実行、不服従であります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、119f。
神さまを愛するということは、神さまから私たちに贈られた義務です。しかしそれは義務であると同時に喜ばしい命令です。神さまなくして自分の肉的な力のみで神さまを愛そうとするならば重たい荷物のようなものですが、今はキリストにつながる者にしていただき、聖霊の豊かさの中に生きる者としていただきましたから、それは喜ばしい命令となったのです。
ですから神さまを愛することを実行しないこと、神さまに従わないことは、逆に厳しく重たい荷物のようなものになりました。神さまに従わないことは、自由ではなく、不自由なこととなったのです。
不自由な人生に、喜びも祝福もありません。
神さまを愛し、神さまに従う喜びにきょうも生きたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたを愛する者にしていただきましたことを感謝します。
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