〔「ついて来なさい」との呼びかけ〕
2015年2月21日(土)教会は、たしかに主の教会ですから、羊飼いがその右側に置く人びとの群れと一体であることを期待します。しかし、この期待において喜んでいい教会はどれか。それについてはイエスの再臨において決定がなされるでしょう。すなわち、イエスの再臨から、イエスがまだ隠されている時である現在への立ち戻りが生じます。今の立場で、イエスへの、今なお隠されている者への今の態度で、将来、イエスの右側に立つ教会はどれか、がその時決定されるでしょう。
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イエスは今なおどこに隠れておられるのか。
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この現代に飢えている者、のどが渇いている者、異邦人、裸の者、病気の者、囚われている者たち各々の存在の中に隠れておられます。常に、この現代に、この人たちの一人が人間的な援助(食料、飲み物、宿泊施設、衣料、訪問と介護を)待っているところで、そこに彼、イエスご自身が待っておられます。
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教会がそれをなしたということ、教会が世の具体的な悲惨に触れられて、貴族的な言い逃れをしながら彼らの側を通りすぎはしなかった。教会が率直に、直接に、そして反対の一切の弁解もなく「人間的」であった、ということが明らかになるならば、教会は幸いなるかな、であります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、116f。
イエスさまが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と呼んでおられる存在は、どこにおられるでしょうか。世界を見渡せば、紛争があり飢きんがあり困難があります。そこにイエスさまが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と呼んでおられる人びとがいます。私たちはその人びとの中にイエスさまご自身を見て、「貴族的」に通りすぎるのではなく、「人間的」に援助の手を差し伸べる者でありたいと思います。
また、イエスさまは、今この時、私の「隣り」に「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」を置いておられます。それはまさに「隣人」です。遠くの人びとよりも、もしかすると愛することの困難を覚える人びとであるかもしれません。しかしその人びとの中に、イエスさまご自身を見る、そして「人間的」な援助の手を差し伸べる者でありたいと思います。それは信仰なくしてはできないことです。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」の「一人に」したのは・・・。
家族の一人に、援助の手を差し伸べる者でありたいと思います。
(祈り)
神さま、私の隣りのひとにあなたを見させてください。
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