〔神の国について〕
2015年2月17日(火)「ファリサイ派の人」と「徴税人」の譬えは、実際には同じように神の前に恥じて立っている二人の人について語っています。
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だが彼らがその恥を認識するか認識しないかによって制約される、相違全体についても語っています。
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そうだということは後者は知っており、前者は己が身の上を知りません。
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二人が神殿の中に立っています。二人とも神の面前にーだが一切を神に求める者だけが祈ります。しかも自分自身には何も求めない者だけが、一切を神のもとに求めるのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、109f。
この世界には、自分のことを罪人であると知らない罪人と、自分のことを罪人であるとわきまえ知っている罪人の、二種類の人がいます。
前者はファリサイ派であり、自分の中の功徳(そのようなものは神さまの前には小さなものなのですが)が自分の人生を築くかのように錯覚しています。ですから神さまの前に、自分がどれだけ頑張ってやっているかを数えます。そうして安心しようとします。また安心するために他の人々を裁きます。
一方、後者、すなわち自分のことを罪人であるとわきまえ知っている罪人は、ただ自分の胸を打ちたたくだけで、ひたすら神さまの前に罪人である自分を憐れんでほしいと願います。
イエスさまは、ファリサイ派の人ではなく、この後者の人を「義」であると神さまは受け入れて下さるのだ、と言われました。
ファリサイ派の人のように自分の功徳を神さまの前に数える生き方には、平安はありません。
徴税人のようにただひたすら罪人であることを神さまの前に認め、そんな罪人をも受け入れて下さる神さまの愛を信じるものが、まことの平安をいただくことができるのです。
(祈り)
神さま、罪人である私をあわれんでください。
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