〔イエスと群衆〕
2015年2月2日(月)イエスがご覧になって、ひたすら憐れまれた群衆の悲惨とはいったいなんだったでしょうか。それは―福音書記者の解説文がはっきりと記していますが―彼らは「羊飼いのいない羊のように弱り果て打ちひしがれていた」がゆえに、イエスは群衆を憐れまれたとあります。
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彼らになかった「正しい」羊飼いとは、自分には羊たちに対する責任があると心得る、つまり完全に彼らのためにいるのだとする、唯一のお方でしょう。その方なら、みんなの愚かな叫びや鳴き声「俺が! 俺が!」を聞き、心底から、人びと自身よりもよく理解なさるでしょう。その方なら、彼らをそのために避難して軽蔑なさらないでしょう。彼らが必要とするものを、いかに彼らを本当に実際に助けられるかを、ご存知でしょう。彼らすべてを一つにまとめ、彼ら皆を相互に、そして一人ひとりを、本来必要としているものが見出せるところへ連れて行くでしょう。
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イエスは本当に王に相応しい方、その人間的な憐れみは神の憐れみを反映していましたが、彼らの悲惨はイエスの心を打つだけではなく、心の中に、イエス自身の中に入っていきました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、83f。
イエスさまは私の良い羊飼いです。正しく導いてくださるまことの神さまです。自分のことばっかりしか考えられないこの私を憐れんでくださったのです。そして私をよく理解してくださり、本来必要としているものが見出せるところへ連れて行ってくださいます。
私はただこのイエスさまにおゆだねするのができ得る最善のことです。
(祈り)
神さま、あなたにゆだねます。
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