〔イエスと群衆〕
2015年2月1日(日)この表現は翻訳できないほど強い。目の前にある悲惨はイエスを深く悲しませただけではなく、心に迫っただけでなく―私たちが使う概念の意味での「同情」はそれに対応する語ではないでしょう―そうではなくてイエスの心の中に、イエスご自身の中に入っていったので、今や全くイエスの悲惨、悲惨な人びとの悲惨よりずっとイエスの悲惨となり、究極的に結局は―イエスはそれを彼らから取り上げ、ご自分に引き受けられ―もはや彼らの悲惨ではなく、全くイエスの悲惨となったのです。
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群衆、その中では人びとは本当のところもはや人間ではありませんでした。この群衆を見てイエスは憐れまれたのです。
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イエスはほとんど目には見えないが強い結びつきと連帯のうちに、まさに彼らと共に立っておられた。それがイエスの憐れみに根ざしていたがゆえに強いのです―イエスは人びとからその悲惨を取り去り、ご自分に引き受けるために、彼らの悲惨以外には何一つ彼らから望まれなかったからです。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、81ff。
群衆。この言葉に響きの中に否定的なものを感じます。しかしその群衆をイエスさまは憐れまれたと聖書は語ります。
イエスさまは十字架にかかられます。当時の宗教家の策略によって十字架への道に進まれます。しかしそこで「イエスを十字架につけろ」と叫んだのは群衆でした。その群衆。イエスさまは深く憐れまれたのです。
イエスさまに深く憐れまれた存在となった群衆は、もはやただの群衆ではなく、イエスさまの憐れみの中にある群衆となりました。
私も時折群衆となります。しかしそこにもイエスさまのご愛は及んでいるのです。
(祈り)
神さま、群衆となって卑怯と悲惨の中にある私を赦して下さい。そこでもなおあなたの愛が私をとらえていることを学ばせてください。
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