無なるものは悪である

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〔始まり―無からの創造〕

2015年1月4日(日)

神が望まない、したがって否定し、放棄するもの、つまり神の熱意、怒りと裁きの対象でしかありえないものは、神の恵みを逃れ、反抗し、したがって神の恵みを欠いている存在なのであります。この恵みを知らず、恵みに逆らう、恵みのない存在が、無なるものの存在です。神の「恵みのこの否定」は「混沌」であります・・・。まさにそれがキリスト教的な意味で、悪いということです。すなわち、恵みを知らず、恵みに逆らう、恵みのない状態であります。まさにこの意味で無なるものは実に、神の栄光と権利の略奪であり、同時に被造物の救済と権利の略奪であります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、25f。

罪人である私たちを、神さまは一方的な恵みによって、み子イエスさまを遣わして下さり、十字架と復活のみ業によって、罪から救い出して下さいました。
この神さまの恵みを知らず、恵みに逆らうこと、恵みを否定すること、それが無であり悪であるということでしょうか。

何が悪であるのか。確かに聖書を読んでいると、悪の基準が、私たちのもっているそれとは少し違っていることを感じます。
神さまの恵みを知らない、恵みに逆らう、恵みを否定すること。すなわち、自分の力で、自己中心の力で何かがなされるという信仰は、キリスト教信仰に生き始める中にも常に襲い来る偶像礼拝であると思います。

神さまはこの偶像礼拝から、私たちを救ってくださったのです。
私たちは、ただ神さまの恵みに感謝をささげるものです。

(祈り)
神さま、きょうもあなたの恵みに生かされていることを感謝します。

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