そのような曲解はどうして可能なのか

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2014年2月6日(木)
「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そしてわたしに従ってきなさい。」(マタイ19:16-26から)

逆説的な理解が正当性を持ち可能となるのはただ、その人の生涯のうちのある一点で単純な理解をすでに真剣に受けとめたことのある人、イエスとの交わり、服従の中に生きている人である。イエスの命令を受けた時に自分の財産を手もとに置く代わりに、それを実際に投げ出すことのほうがはるかにやさしいということを知らない者は、イエスの言葉を逆説的に理解する権利を持たないのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、66頁f。

ここで逆説的な理解とは、上記のみ言葉を実際に財産を売り払い貧しい人々に施すことではなく、そのような精神に生きること、すなわち財産から自由であることをイエスさまは私たちに語っているのだ、だから実際に財産を売り払い貧しい人々に施さなくても良いのだという理解のことです。
確かに実際に財産をすべて売り払って貧しい人々に施してしまうならば、生活ができなくなり結果として人々に迷惑をかけることになるでしょうし、この逆説的な理解のほうが聖書を正しく理解したことになるのかもしれません。
しかしそのような理解を持つことができるのは、この生涯で一度でもこの言葉を単純に受けとめてそのようにしたことのある者だけであるとボンヘッファーは語ります。単純に受けとめることを一度もしないものは、このような逆説的な理解をする権利を持たないというのです。

確かに財産に縛られず自由にこの人生を生きること、すなわち財産に関する思い煩いから自由にしていただくためには、抽象的なことではなく、具体的な信仰の行動が基礎になければならないのだと思います。

(祈り)
神さま、抽象的なことではなく具体的な施しに生きることができない私を赦してください。あなたが十字架におかかり下さった、その具体的な愛に生かされていることをきょうも確かにしてください。

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