2014年2月5日(水)
「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか?」(ルカ10:25~29から)隣り人であるということは、だれが隣り人なのかと自分が品定めをすることではなく、他者が自分に要求していることなのである。自分自身が隣り人となることであって、そうでなければ無意味である。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、64頁。
だれが私の隣り人であろうか、と問う律法の専門家に、主イエスさまは良きサマリや人の譬えを話され、だれが隣り人になったかと問い返されました。自分にとっての隣り人とはいったいだれであろうか、という問いをするのではなく、自分が隣り人となることを考えるようにと主は導かれたのです。
隣り人となること。それはキリスト者の生き方です。
きょうも誰かの隣り人になりたいと思います。
(祈り)
神さま、きょうもだれかの隣り人とならせてください。家族の、友人の、出会う方々の隣り人とならせてください。
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