われわれの知恵とはどのようなものか

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2014年1月30日(木)

アダムが悪魔から知恵を授かった後、すべての人は<神に対し、また人間に対し、どのようにふるまわなければならないか、もうすでに分かった>と考えるようになった。しかしもしそうであったとしたら人類はその知恵を使うことによって今ごろはもう立派な世界を建設しているはずではないか。それなのに実際はどのようであったのだろうか。
・・・
どのような敵にわれわれが出会うことがあっても、<その敵を神が愛しているのだ、その敵のために神がすべてを差し出しているのだ>と考えることが大切なことなのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、53頁f。

自分がなぜ神さまによって救われたのか。神さまはなぜ私を救ってくださったのか。それは分かりません。人間にはその知恵が与えられていません。それがわかるほど人間は賢くありません。少なくとも、私の中にある何か、善や功績が理由で、それに神さまがご褒美を下さろうとして救ってくださったということではありません。むしろ罪人であり神さまに背を向ける者でした。それにもかかわらず神さまは私を救ってくださったのです。イエスさまの十字架と復活によって救ってくださったのです。
そのことが分かるということは、私に向かう敵に対する私の態度を変えさせます。私を一方的な愛で愛してくださった神さまは、その敵をも十字架と復活の愛によって愛しておられるということです。
そのことを考えることが大切であるとボンヘッファーは語ります。

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