自分自身の困窮に関わるだけでは不十分である

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2014年1月20日(月)
「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5:7)

これらの財産なき人々、異郷の人たち、無力な人たち、罪人たち、イエスに従う人たちは、イエスと共に、自分の尊厳を放棄して生きている。なぜなら、彼らはあわれみ深いからである。彼らは自分自身の困窮や欠乏に関わるだけでは満足せず、その上になお、他人の困窮、卑賤、罪責にあずかろうとする。
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どのような困窮も耐えられなほど大きいということはなく、どのような罪も近寄れないほど恐ろしいということはない。あわれみがそれに及ぶからである。
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それは彼らの主のあわれみであって、それのみによって彼らは生きるのである。
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あわれみ深い人たちは、幸いである。彼らはあわれみ深い方を主と仰ぐからである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、36頁f。

あわれむ心とは他者の苦しみに寄り添うことです。あわれむ心を持ちたいと思います。
あわれむ心は他人の困窮や欠乏に、卑賤や罪責にあずかろうとすることです。罪人の傍らに寄り添うことによって世間から非難されることがあるかもしれません。しかしそのこともいとわない心です。
そのような道にいきる者はイエスさまからのあわれみをしっかりといただくことができます。あるいはイエスさまからのあわれみをしっかりといただいた者だからこそそのような道に生きることができるのです。
イエスさまはあわれみ深いお方です。イエスさまからのあわれみを喜びとしましょう。イエスさまからのあわれみだけを喜びとしましょう。
さいわいな人生がそこに生まれます。

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