2014年1月19日(日)
「義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイ5:6)自分自身の権利を放棄するだけでなく、自分自身の義をも放棄して生きる者こそが服従する者である。彼らは、自分の業や捧げる犠牲を自分で誇るようなことは決してしない。彼らは、義に飢え渇くことにおいてしか、義を持つことができない。
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生命のパンである方が、どんな飢えの中にある時にも、彼らの中にいる。これこそ罪人らの幸いなのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、35頁f。
義とは正しいということです。この世で正しさを求めることをキリスト者は大切にします。しかしこの世は必ずしもそれにこたえてくれません。ときに不正の中に強いられて生きなければならないことがあります。そんな時、義に飢え渇きます。
そこで義を実現するためにキリスト者は何をするのか。自分の業や自分の犠牲を誇ることはせず、ただ飢え渇くということをします。
イエスさまがどんな時も共にいて下さるということを慰めとし励ましとします。そして再臨のイエスさまを待ち望みます。
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