私たちへの神の援助の灯火も、内的な罪を犯すことにより失われてしまいます。例えば高慢があります。
・・・高慢は魂における神の光を破壊はしないのですが、ぼんやりとさせてしまいます。
それが神の栄光への情熱という名前によって特徴づけられているにしても、自分を怒りに明け渡すことによっても同じ影響が起こります。
・・・怒りが市民的・宗教的な結びつきによりつながれている人に向けられた場合にあてはまります。
ローマの信徒への手紙2章4節
2013年10月28日(月)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
321頁
高慢、高慢からくる怒り、それらが神さまの恵み、神さまの栄光を破壊はしないがぼんやりとさせてしまうといいます。
義憤、大義を持った怒り、そして市民的、宗教的な怒り。義憤。
それらは神さまの恵みの光をぼんやりとさせてしまうのです。
怒りという感情のコントロールはなかなか難しいものです。人間的な力によってでは不可能ではないかと思うほどです。そこには成育歴、もって生まれた性質も深くかかわっているように思います。
ひたすら十字架をしのばれたイエスさまを見上げるしかありません。
あるいは十字架をしのばれたイエスさまを見上げることが最善の道です。
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