・・・主ご自身のように歩くには自制が必要です。・・・そうでなければ、あなたの忍耐はキリスト教的ではなく高慢に過ぎず、無愛想で厳格主義と同じになってしまいます。
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キリスト者にとって信心は温和で、優しく、ほがらかで、思いやりがあり、情熱に燃え、慈愛の心に富むものです。ペトロの手紙第2、1章6,7節
2013年7月18日(木)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
215頁
御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5章22-23節)です。
信仰が生きたものとなるためには、その中心にいつも愛が必要です。自制がないということは愛がないということです。愛がない信仰は、高慢、無愛想、厳格主義であって、自分も隣人も信に生かすことになりません。
信心とは敬虔のことです。敬虔な生き方ということは、温和で、優しく、ほがらかで、思いやりがあり、情熱に燃え、慈愛の心に富むものですから、温和でない敬虔、優しく朗らかでない敬虔、思いやりのない敬虔、情熱に燃えていない敬虔、慈愛の心に富んでいない敬虔、これらすべて未熟なのです。真の敬虔ではないのです。
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