神の道の究極は、身体性である。イエス・キリストの血によって義とされ聖とされたこのからだの中にこそ、神は、その聖霊を送ることを欲せられる。神は、私たちのからだが、霊魂の老い朽ちた墓石であることを欲せず、聖霊の宿―しかも美しい宿、「聖霊の宮」であることを欲せられる。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、219ページ
第1コリント6章19節
2012年06月28日(木)
宗教において時折「からだ」を否定的に扱うことがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「からだ」が神さまによって造られたと語ります。しかも造られた時には「良かった」といわれる身体でした。
信仰は、このからだが再び良かったといわれる時の状態に新しくします。ですから私たちはこのからだに生きていることを喜びとします。神さまは聖霊さまを住まわせて下さるほどのものとして下さったのです。
私たちは、「自分のからだを清く尊く保つ」(第1テサロニケ4章4節)ことを願わなければならない。しかし、そのこともまた、私たちが日々、御霊によって聖められることによってだけ、起こるのである。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、219ページ
第1コリント6章19節
2012年06月28日(木)
ただ聖霊さまが住んで下さるにふさわしいからだでありたいと思います。そのために様々な努力を想像しますが、リュティはそれも日々御霊なる神さまがなさってくださることである、と語ります。私たちは、ただこの神さまにすべてをゆだねることなのです。
今日も三位一体の神さまがともにいてくださることを感謝したいと思います。
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