礼拝説教から 2019年6月9日

聖書箇所:ガラテヤ人への手紙3章3節、5章16-26節
説教題:御霊によって

 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。(ガラテヤ人への手紙5章22-26節)

 使徒パウロは、自分とガラテヤの教会の人々をまとめて、「私たちは、御霊によって生きているのなら」と言いました。少しややこしい表現ですが、どういうことでしょうか。それは、「仮に聖霊によって生きているのだとすれば」ということではありません。そうではなくて、「聖霊によって生きているのだから」ということです。パウロは、自分もガラテヤの教会の人々も、「聖霊によって生きているんだよ」ということを言っているわけです。仮に「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったり」することがあるとしても、自分自身を十字架につけて、「キリスト・イエスにつく者」なのであり、「聖霊によって生きている」のだということです。そしてだからこそ、「聖霊によって進もうではありませんか」と呼びかけ、励ましているということです。

 パウロは、「進もうではありませんか」と言いました。この「進もう」と訳されているギリシヤ語のことばは、元々は軍隊の用語で、「隊列に並んでいる」という意味になるそうです。つまり、「進もうではありませんか」というのは、「隊列に加わりなさい」ということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。聖霊によって歩む、聖霊によって進むというのは、「一人一人がばらばらに」ということではなさそうです。聖霊によって歩む、聖霊によって進むというのは、一人一人が「ばらばらに」ではなくて、「一緒に」追求するものだということです。聖霊によって歩む、聖霊によって進むというのは、聖霊によって誕生した教会が一緒に追求するものであり、互いに助け合って、互いに愛し合って、初めて可能になるものだということです。あるいは、自分一人だけが聖霊によって歩んでいる、聖霊によって進んでいるつもりになっているとすれば、それは誤解に過ぎないということになるのかも知れません。

 私たちの教会はどうでしょうか。聖霊によって進んでいるでしょうか。教会が一つになって、互いに助け合って、互いに愛し合って、進んでいるでしょうか。自分だけが聖霊によって進んでいるつもりになって、そうして、互いに批判をし合ったり、教会の一致を乱したりしているようなことはないでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝で、教会が十字架につけられたイエス・キリストにあって一つにされている家族であることを覚えたいと思います。聖霊の指導の下に、互いに配慮をし合いながら、仕え合いながら、ゆっくりと足並みを揃えて一緒に進んでいくことができればと思います。そしてそこに、聖霊の豊かな実が結ばれることを、心から願います。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実が豊かに結ばれていくことを、心から願います。

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