礼拝説教から 2018年10月7日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章53-65節
  • 説教題:大祭司宅での取り調べ
 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。(マルコの福音書14章55節)
 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」(マルコの福音書14章61-62節)
 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。(マルコの福音書14章64節)
 大祭司と最高法院の人々は、イエス様を死刑にしたいと思っていました。そして、イエス様を死刑にするために、取り調べを行っていました。
 しかし、どうなのでしょうか。人を死刑にするには、どのような根拠が必要なのでしょうか。人は何を基準にして死刑と定められるのでしょうか。
 大祭司は「神を冒瀆することば」を聞いたと言いました。イエス様から「神を冒瀆することば」を聞いて、イエス様が死刑に値する罪を犯したと考えました。そして、最高法院を構成するメンバーの全員が大祭司の意見に同意しました。
 どうやら、大祭司と最高法院の人々が考えていた死刑の基準というのは、「神様を冒瀆すること」ということになりそうです。嘘をついたとか、物を盗んだとか、人を殺したなどということではありません。神様を冒瀆するということです。大祭司と最高法院の人々にとっては、神様を冒瀆することこそが、死刑に値する罪でした。
 それでは、神様を冒瀆するというのは、どういうことでしょうか。
 大祭司は、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と尋ねました。大祭司はイエス様に対して、「神の子、キリストなのか」と尋ねたのでした。それは、イエス様がご自分のことをどのように考えているのかを問う質問でした。イエス様がご自分のことを神と等しくしているかどうかを問う質問でした。
 そして、イエス様はここで何と、「そうだ」と答えられました。「私は神の子であり、キリストである、救い主である」ということを、イエス様ははっきりと宣言されました。
 しかも、イエス様は大祭司から質問されていないことまで付け加えられました。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」イエス様は、もはやどのような言い逃れもできないほどに、ご自分を神に等しい者として宣言されたのでした。そして、大祭司はこれらのことばを聞いて、「神を冒瀆することばを聞いた」と言ったのでした。
 大祭司や最高法院の人々にとって、神様を冒瀆するというのは、「自分を神に等しい者とする」ということになりそうです。そして、この大祭司や最高法院の人々の理解は、決して間違っていないのだと思います。
 しかし、イエス様の場合には事情が異なります。なぜなら、イエス様はまことの神様だからです。まことの神様でありながら、人となって、私たちの世界に来てくださった方だからです。
 イエス様はそれまで、ご自分が病気を癒やした人々や、悪霊たちに対して、むしろご自分のことを誰にも言わないようにと、命じておられました。それは、ペテロが「あなたは、キリストです。」と、その信仰を告白した時も同じでした。イエス様は、ご自分が神の子であり、キリスト、救い主であることを、むしろできるだけ隠そうとしてこられたのでした。
 しかし、捕えられて、大祭司の屋敷で取り調べを受けて、死刑にされようとしているそのタイミングにおいては、イエス様ははっきりと、ご自分が神の子であることを、キリスト、救い主であることを宣言されたのでした。神様を冒瀆することばと理解されて、死刑にされることが分かっている状況の中で、ご自分が神の子であり、キリスト、救い主であることを宣言されたのでした。
 イエス様は、人々がご自分の奇蹟や立派な教えに心を奪われて、この方こそまさにキリスト、救い主であると期待する、そのような場面においては、ご自分が神の子であること、キリスト、救い主であることを隠されました。しかし、その反対に、捕えられて、死刑にされようとしている場面で、イエス様はご自分が神の子であることを、キリスト、救い主であることを、はっきりと宣言されました。ご自分が神の子であることを、キリスト、救い主であることを宣言することによって、人々がご自分に従うどころか、神様を冒瀆する者として、人々から罪に定められる、そのような場面においてこそ、イエス様はご自分が神の子であり、キリスト、救い主であることを、はっきりと宣言されたのです。
 つまり、どういうことでしょうか。それは、神の子であるイエス様が私たちにもたらそうとしておられる救いというのは、十字架につけられることによってこそ実現するということです。イエス様は、死刑に値する罪人として十字架につけられることによってこそ、そして三日目に復活することによってこそ、私たちの救い主、キリストになろうとしておられるということです。
 私たちは神様によって造られました。神様は私たちを愛し、私たちとともに生きることを願っておられます。私たちが神様に頼り、神様に支えられて生きることを願っておられます。
 しかし、私たちはその神様から顔を背けました。自分が中心となって、自分を自分の神として生きるようになりました。それはまさに、神様を冒瀆したということになるでしょう。他でもなく、私たちこそが神様を冒瀆して、死刑に値する罪人として、十字架にかからなければならないということです。
 イエス様は、その私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださいました。神様の愛を拒み、自分を自分の神として生きる私たちの罪が赦されるために、私たちの身代わりになって、罪人として十字架にかかってくださいました。そうして、私たちの罪が赦され、神様とともに、神様に支えられて生きる道を開いてくださいました。
 大切なことは、神の子であるイエス様が十字架にかかってくださったのは、「私」を愛してくださったからであり、「私」の罪が赦されるためだったんだということを、信じて受け入れることです。神様の前で罪人である自分を知り、その罪が赦されるために十字架にかかってくださったイエス様に感謝して生きることです。イエス様から愛されていることを覚え、その愛に支えられながら、喜んで、謙遜に生きることです。

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