礼拝説教から 2018年10月14日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章66-72節
  • 説教題:鶏が二度鳴く前に
 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」(マルコの福音書14章67節)
 ユダの裏切りによって、イエス様が捕えられると、ペテロは他の弟子たちとともに逃げ去ってしまいました。しかし、イエス様のことが気になったのでしょうか、一番弟子としてのプライドがあったのでしょうか、ペテロは遠くからイエス様の後について行き、大祭司の家の中庭で、役人たちと一緒に火に当たっていました。そして、その火に当たっている姿を見咎められてしまいました。
 もしかしたら、ペテロは、役人たちと一緒に火に当たりながら、上手く紛れ込んでいるつもりでいたかも知れません。しかし、実際には、火の光に照らされて、自分の姿をさらけ出してしまっていたのでした。
 ペテロは、火の光に照らされて、自分の姿をさらけ出してしまいました。それは、ただペテロの顔が照らし出されたということではありません。ペテロの全身が照らし出されたということではありません。それは、イエス様と一緒にいたペテロの姿が明るみになったということです。イエス様の弟子というペテロ本来の姿が、あるべき姿が明るみになったということです。
 そして、そのペテロの姿は、周りの人々に見えたというだけではないのだと思います。ペテロ自身も、火の光の中で、火の光に照らされて、自分自身の姿を見つめさせられたのではないでしょうか。イエス様のことが気になって、とりあえず遠くからついて来たのはいいけれど、ビクビクしながら、役人たちの中に紛れ込んでいる自分の姿、そうして自分とイエス様との関係がばれないことを願っている自分の姿を、ペテロは火の光に照らされながら見つめることになったのだと思います。ちょっと前には、「たとえ皆がつまずいても」などと、威勢のいいことを言っていたにもかかわらず、肝心な所では、イエス様の弟子という自分本来の姿が明らかになることを恐れている、醜い自分の姿を見つめることになったのではないかと思います。
 光というのは何でしょうか。それは暗闇を照らすものです。そして、暗闇の中に隠れているもの、暗闇の中に紛れているものを明るみに出すものです。ペテロはその光に照らされたのでした。
 イエス様は世を照らすまことの光として来られました。この世の闇を照らし、私たちの心にある闇を照らしてくださいます。そうして、私たちにありのままの自分の姿を見つめさせてくださいます。それは、私たちが自己嫌悪に陥るためではありません。そうではなくて、それは、ありのままの私たちを、イエス様がそのままに受け入れていてくださり、愛していてくださることを知るためであり、私たちもまたイエス様に受け入れられ、愛されている自分を、そのままに受け入れ、愛することができるようになるためです。そうして、私たちが神様によって造られた本来の姿を取り戻すためです。
 大切なことは、イエス様というまことの光に照らされることです。そして、そのまことの光によって照らされたありのままの自分を、イエス様がそのままに受け入れていてくださり、愛していてくださることに気がつくことです。十字架にかかられたイエス様と向き合う時、私たちはそのイエス様の愛に気づくことができます。
 十字架にかかられたイエス様と向き合いながら、イエス様の光の中で、自分自身を見つめることができればと思います。イエス様に受け入れられ、愛されている自分を、そのままに受け入れ、愛することができればと思います。それが、神様に造られた本来の自分を取り戻すことにつながっていくことを願います。

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