礼拝説教から 2018年7月15日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章35-37節
  • 説教題:右の座に着いておられるキリスト
 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。↩ 「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。↩ わたしがあなたの敵を↩ あなたの足台とするまで。」』(マルコの福音書12章36節)
 ダビデは、主なる神様が、自分の主、キリストに言われたことばを聞きました。それは、「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。↩ わたしがあなたの敵を↩ あなたの足台とするまで」ということばでした。このことばは、父なる神様がキリストを、ご自分の右の座に着けて、すべての敵を打ち破って、その支配を確立させてくださることを告げています。そしてそれは、御子イエス様が十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえり、天に昇り、父なる神様の右の座に着かれたことによって、実現しました。神様の右の座に着かれているイエス様を通して、私たちはあらゆる敵に対する神様の勝利を確信することができ、神様がイエス様とともに、この世界を支配しておられることを知ることができるのです。
 使徒の働きを見ると、この神様の右の座にあるイエス様を見た人のことが記されています。新しく始まった教会で、最初の殉教者となったステパノです。使徒の働き7章55-56節です。<しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。> 
 ステパノは、キリストであるイエス様が、神様の右の座で、この世界を支配しておられる姿を見ることができました。そして、その神様の右の座に着いておられるイエス様は、座っておられるのではなくて、立っておられると言っています。イエス様は、座っておられたのではなくて、立っておられたと言うのです。
 イエス様はどうして立っておられたのか、それは、イエス様が、今まさにご自分のもとに来ようとしているステパノを迎えようとしておられたからだと考えられているようです。ステパノは、イエス様が、今まさに命を奪われようとしている自分のために、立ち上がって手を差し伸べていてくださる姿を見たというのです。
 私たちは、最初の殉教者となったステパノのようには、神様の右の座に着いておられるイエス様を見ることができないかも知れません。しかし、ステパノと同じ信仰の目をいただいています。そうして、多くの教会が、毎週の礼拝の中で、使徒信条によって、キリストである御子イエス様が、「全能の父なる神の右に座し給えり」と告白しています。
 この世界を見ていると、あるいは、自分自身の置かれている状況を見ていると、イエス様の支配はどこにあるのかということを、しばしば考えさせられます。「イエス様が救い主であるなら、どうして」ということを、しばしば考えさせられます。
 しかし、キリストであるイエス様は、神様の右の座で、この世界を支配しておられます。いつも私たち一人一人を見守っていてくださいます。私たちは礼拝の中で、信仰の目を持って、このイエス様を見上げることができます。
 毎週の礼拝が、神様の右の座に着いておられるイエス様を見上げる時となることを願います。そうして、私たちの考えや期待をはるかに越えて働いておられるキリスト・イエスの支配が確立されていることを覚えながら、またそのキリスト・イエスに見守られていることを覚えながら、この世界の中へと遣わされていくことができればと思います。

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