礼拝説教から 2019年5月5日

聖書箇所:創世記12章1-9節
説教題:信仰の旅立ち

 主はアブラムに言われた。↩ 「あなたは、あなたの土地、↩ あなたの親族、あなたの父の家を離れて、↩ わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)

 神様はアブラムに、自分の土地、自分の親族、自分の父の家を離れて、ご自分の示す地に行くことを求められました。

 自分の土地、自分の親族、自分の父の家を離れるというのは、どういうことでしょうか。それは、自分の慣れ親しんだ所から離れるということではないでしょうか。そこが好きであるにしろ、嫌いであるにしろ、自分の生まれ育った土地というのは慣れているものです。どこに何があるのか、どこに行けば必要なものが手に入るのか、すべて分かっているわけです。何の不安もありません。また、自分の親族や父というのは、頼ることのできる人々、ともに支え合うことのできる人々ということになるでしょうか。

 その自分の土地、自分の親族、自分の父の家から離れることを、アブラムは求められたのでした。自分の慣れ親しんだ所から、ともに支え合う人々のいる所から離れて、神様が示される地に行くことを求められたのでした。それは、無茶な要求だと言えるでしょう。しかし、その神様の無茶な命令に、アブラムは何とそのまま従いました。

 慣れ親しんだ土地を離れて、知らない土地に行くことは、簡単なことではありません。よく知っている人々から離れて、知らない人ばかりの所に入って行くのは、簡単なことではありません。それはリスクを伴うことです。とても不安なことです。大きな冒険です。

 しかし、そうであるにもかかわらず、アブラムは出発したのでした。しかも、目的地がはっきりしない旅へと出発したのでした。どうしてでしょうか。それはアブラムが神様を信じたからだと言う以外には、説明することができません。アブラムは、ただただ神様だけを頼りにして、神様が守ってくださることだけを信じて、神様がふさわしい所に導いてくださることだけを信じて、出発をしたということです。アブラムは、ただ単に引っ越しをしたのではなくて、信仰がなければ、出発することも、続けることもできない旅に出たのでした。神様に導かれて進む旅、神様とともに歩む道、信仰の旅に出たのでした。それは七十五歳の旅立ちでした。

 今から15年ちょっと前になるでしょうか。私は隣の国、韓国で教会に導かれていました。当時の私にとって、教会というのは未知の世界でした。しかもそこは、慣れ親しんだ日本の地ではなく、外国である韓国の地でした。

 そして、教会に導かれて、半年ほどしてからのことでした。私は信仰の決断を迫られるようになっていました。神様を自分の主として、救い主として受け入れるかどうかの決断を迫られていました。私はその時に、「もし自分がクリスチャンになったら、これからの人生はどうなるんだろう」ということを思っていました。それはまさに未知の世界でした。どのような人生になるのか、想像もつきませんでした。まさに慣れ親しんだ世界を離れて、未知の世界へ足を踏み入れることでした。そこには大きな不安がありました。

 しかし、信仰が与えられて、後に洗礼も受けて、15年という月日が経った今にして思うことは、自分が誰よりも確かな方に導かれてきたということです。それは良いことばかりの人生だったということではありません。自分で自分の将来をすべて見通すことができたということでもありません。良いことばかりではなかったけれども、どこに向かっているのか分からないようなこともあったけれども、自分のことを愛していてくださり、すべてを支配しておられる神様に導かれている安心感があったということです。私自身はどこに向かっているのか分からないような時にも、私を導いていてくださる神様は、すべてを知っていてくださるという安心感がありました。

 神様は、アブラムを招かれた時、その目的地を明確には示されませんでした。「わたしが示す地へ行きなさい」という曖昧な言い方しかされませんでした。そして、アブラムはその神様のことばに従って、どこに行くのかを知らないままに出発しました。しかし、誰よりも確かな方、まことの神である主がふさわしい所に導いてくださることを、アブラムは確信していました。

 私たちはどこに向かっているでしょうか。自分がどこにいて、どこに向かっているかを知っているでしょうか。どこに向かっているのか分からなくて不安だということはないでしょうか。あるいは、自分の向かっている所がよく分かっているつもりでいて、実はとんでもない所に向かっているということはないでしょうか。

 アブラムを招かれた神様は、私たち一人一人も招いていてくださいます。ご自分を信じて、ご自分の示す所へと出発するように招いていてくださいます。そうして、私たちが先行きの見えない不安な道を歩むのではなく、どこに向かっているのか分かっているつもりでいて、実はとんでもない所に向かっているような道を歩むのでもなく、神様ご自身に導かれて歩むことを願っておられます。私たちを愛していてくださり、すべてを知っていてくださり、最もふさわしい所へと導いていてくださる神様ご自身とともに進むことを願っておられます。

 この神様の願いを受け止めて、神様の招きに応じて、神様に導かれて歩む信仰の旅立ちをスタートしたいと思います。

コメントを残す