礼拝説教から 2018年3月25日

2018年3月25日
マルコの福音書10章13-16節
子どものように
 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
 イエス様の祝福を求めて、子どもたちを連れて来た人々がいました。弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱りましたが、イエス様はその場面を見て憤られました。そして、弟子たちに対して、「神の国はこのような者たちのもの」、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ること」ができないと言われました。
 どういうことなのでしょうか。
 子どもたちは、自分の意志で来たのではありませんでした。親かそれに近い関係の人々に連れられて来たのでした。自分でイエス様の祝福を求めて来たのでもなく、イエス様が宣べ伝えておられる神の国に入りたいと思って来たのでもなく、連れられて来たのでした。そして、イエス様が祝福してくださるなら、祝福を受けることになり、祝福してくださらなければ、そのまま帰ることになるだけでした。子どもたちにできたことは、イエス様が祝福してくださる時に、ただそれを感謝して受け取ることだけでした。
 子どもというのは、一人前の大人として認められていない存在です。力もなく、知識もなく、理解力もなく、一人前の働きをすることのできない、むしろ時には邪魔にすらなる存在です。人々や神様の前で、誇ることのできる何かを、何も持っていない存在だと言えるでしょう。「自分はこんなことをした、こんな立派なことをした、だからその報いを与えてください、祝福してください。」と要求することのできない存在です。人々や神様の前で、自分の何かを主張することのできない存在、それが子どもだということです。その「子どものように」神の国を受け入れなさいと、イエス様は弟子たちに言われたのです。
 弟子たちが見つめなければならなかったことは、何でしょうか。それは、自分たちがイエス様の弟子とされているのも、イエス様とともに歩んでいるのも、同じように、ただ与えられた恵みによるのだということではないでしょうか。弟子たちが、イエス様とともにいることができるのは、イエス様を王とする神の国の恵みにい与っているのは、自分たちがすべてを捨てて従っているからでもなく、立派な働きをしているからでもないということです。イエス様の前では、自分たちと子どもたちの間には、何の違いもないということです。自分たちも、子どもたちも、イエス様の前で主張することのできる何かを持っているのではなく、ただ与えられた恵みを感謝して受け取ることしかできないということです。
 もしかしたら、弟子たちは自分たちが、イエス様の前で、子どもたちと何ら変わることのない者であることを、見失っていたのかも知れません。自分たちもまた、イエス様の一方的な恵みによって弟子とされ、イエス様とともにいることが許されているだけの者であることを、見失っていたのかも知れません。イエス様に従って歩む中で、いつのまにか、自分たちの信仰、熱心さ、働きなどを誇ろうとしていたのかも知れません。そうして、すべてを捨ててイエス様に従っている自分たちこそが、神の国にふさわしい者であると考え、その一方で、何も持っていない子どもたちを、イエス様に近づく資格のない者として、退けることになったのかも知れません。
 私たちは、どこまでいっても、どれだけ信仰生活を積み重ねても、イエス様の前で自分の持っている何かを主張することのできない者であることを忘れないようにしたいと思います。ただ与えられた恵みを感謝して受け取ることしかできない者であることを忘れないようにしたいと思います。
 しかし、それと同時に、そのような私たちを愛して、イエス様が十字架にかかって死に復活してくださったことを覚えたいと思います。イエス様の十字架の死と復活の恵みによって、神の国にふさわしい者とされていることを、感謝し喜びたいと思います。

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