礼拝説教から 2017年10月8日

2017年10月8日
マルコの福音書6章7-13節
十二弟子の派遣
 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」(マルコの福音書6章8-9節)
 郷里のナザレで人々の不信仰に驚かれたイエス様は、近くの村々を回りながら教えられ、今度は十二弟子を福音宣教の働きに遣わされました。そもそも、イエス様が十二弟子を選び任命されたのは、「彼らを遣わして福音を宣べさせ」(マルコ3章14節)るためでした。
 その十二弟子がいよいよ福音宣教の働きに遣わされていきます。イエス様はその際に、とても厳しい指示を与えられました。何と、旅のためには杖一本を持つだけで、他には何も持って行ってはならないというのです。積極的に身に着けるように言われているのは、ただ「くつをはく」ことだけです。実に厳しい命令ではないでしょうか。
 イエス様が十二弟子を遣わすにあたって、このような厳しい指示を与えられた背景には、旅人をもてなすというユダヤ人社会の慣習が前提にあったからではないかと思います。十二弟子が福音宣教の働きに出て行く、そこには彼らを迎え入れ、もてなしてくれる家があったということです。十二弟子はその家を拠点として、そのもてなしを受けながら、福音宣教の働きに当たることができました。
 しかし、このことを考慮に入れるとしても、やはりイエス様の指示は厳しいものだと思います。イエス様はどうして何も持って行ってはならないなどという指示を与えられたのでしょうか。それは、福音宣教の働きというのは、イエス様が遣わしてくださったという事実に基づくものであり、イエス様が支えていてくださるのであり、イエス様が必要の一切を満たしてくださるのだということを、十二弟子がいつも覚えているためではないかと思います。十二弟子は福音宣教の働きの中で、いつもイエス様を見つめ、イエス様に依り頼むことが求められていたのだと言えるでしょう。
 現在の私たちは、杖一本だけを持って、福音宣教の旅に出て行かなければならないようなことはないと思います。しかし、十二弟子と同じイエス様の弟子として、私たちもまた、世界の中へと遣わされています。福音宣教の働きに遣わされています。週の初めの日曜日の朝、イエス様の復活された日曜日の朝、神様を礼拝して、改めてこの世界の中に、福音宣教の働きへと遣わされていくのです。私たちの日々の歩み、私たちの信仰生活、それは、同時に福音宣教の働きの現場でもあるということになります。
 私たちは何を持っているでしょうか。あるいは、何を持っていないでしょうか。いろいろなものを持っているとしても、それによって、福音宣教の働きができるのではないということを覚えたいと思います。逆に、何も持っていないとしても、そのことによって、福音宣教の働きができないということでもないということを覚えたいと思います。
 いつもイエス様によって、世界の中に遣わされている者であることを覚えたいと思います。私たちの信仰生活そのものが、福音宣教の働きそのものとして、大いに用いられることを願います。

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