
レスリー・ニュービギンの『宣教学入門』P.284にある挿絵を再現してみました。レスリー・ニュービギンはこう記しています。
「この絵は、人間的状況の中心的な逆説、すなわち、神はわれわれの階段の最も低い所で出会うためにやって来られるのであって、最も高い所においてではない、という逆説を表している。また、われわれに対する神の意志(だとは判断する方向)に向かって、われわれが現実に上昇する時、神がわれわれに実際に出会う場所からさらに遠くへ離れて行く、という逆説を表しているのである。『わたしが来たのは義人を招くためではなく、・・・』」
要するに、聖書が語る神、キリスト教が教える神というのは、降りて来られる主であられて、罪人を救うために来られた救い主イエス・キリストの生涯を通してそれが明らかにされたのだということです。私たちが神と出会う場所は、高みへと昇ろうと必死になって努力している自分にうっとりし、「このぐらいがんばってたら神様も認めてくださるに違いない」と思い上がっている場所ではなく、自分の罪と弱さに打ちのめされ、身の程を知っている低い場所だということです。
そう考えると、自分はクリスチャンとして、あるいは聖職者として立派にやっている、「このぐらいがんばって、これだけの実績を積み上げたのだから、神の報いはさらに大きくなるだろう。そして、こんな立派な私を見てキリスト教に改宗する人も生まれるだろうし、こんな私の背中を見て師と仰いでくれる弟子も増えるだろう。更に高みへと神の栄光を表そう」といい、自分にうっとりしているその場所は、すごく危険で、この絵の階段を上ってイエス・キリストから離れて行っている状態なのかもしれません。この本を読んでそんなことを考えさせられました。
天に触れるためには、どんな木によじ登ればよいのだろうか、神にお目にかかろうとして登っても、人間は失敗に終わる。神は下ってこられる。正しい人のところより、罪ある人のところへと神は低く低く下ってこられるのだ。 マリー・ノエル
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