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テサロニケ人への手紙第二

No.01『神の裁き』
◆テサロニケ人への手紙第二1章10~12節
つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

 聖書には神の救済というテーマが貫かれていますが、それと並行して神の裁きも描かれているのです。これには抵抗を覚える人が、信者・未信者に関わらず、大勢いるのではないでしょうか。こういった聖書の個所を引用して、信徒を恐れさせ、多額の献金を強要するカルト化したキリスト教会や新興宗教の存在が、聖書の終末思想に対する悪い印象を増大させています。また、「キリスト教徒は天国に行けるが、そうでない者は地獄へ行く」というメッセージが、何の聖書解釈も意味説明もなしに、軽々しくキリスト教徒の口から発せられる時、独善的なイメージだけが残り、嫌悪感を覚えさせるのです。このパウロの言葉の背景に、ユダヤ人による迫害がありましたし、キリスト教はあくまで新興の少数勢力であって、権力を持つ側ではなく抑圧される側にいたのです。それゆえ、初代教会が経験した苦難は、不公平で不条理に満ちたものでありました。現代のように信教の自由が守られる時代ではなく、またキリスト教国家などは存在しない時代でしたので、キリスト教徒には何の市民権もなかったのです。法に訴えることもできません。暴動を起こせば鎮圧されます。そこで、教会が選んだ方法は、善をもって悪に打ち勝つ(ローマ人への手紙12章21節)というものでした。そして、その勝利は最終的に神の裁きによって完成されるとイエス様も約束されたし、初代教会はそう信じたのです(テサロニケ第一2章15~16節)。そういう意味で、神は抑圧される側の友であって、抑圧する側の友ではありません。たとえキリスト教徒であっても、キリスト教国であっても、それが権力を持ち抑圧する側になっていたなら、神はその友となるはずがありません。そこを理解して、聖書の終末思想を学ぶ時、神の裁きが、ご都合主義に流れず信仰と愛に生きた人々への慰めと励ましであったことがわかるのです。苦難の中にある人は、神の報いを信じて善をもって立ち向かいましょう。
(洛西キリスト教会・奥村)

No.02『伝えられた言葉を大切に』
◆テサロニケ人への手紙第二2章14~15節
ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。

 初代の教会は、ユダヤ人の迫害によって苦しめられていました。そのため、福音から離れようとする誘惑に駆られていたのです。ヘロデ大王はエドム人であったのに、ローマ帝国の権力を後ろ盾に、ユダヤの王となり、その子供たちも領主として実権を握りました。また、祭司たちもローマ帝国に金品を贈ったり、総督に賄賂を渡して、その階級を維持し続けました。このように腐敗しきったユダヤの指導者たちが率いるユダヤ人の勢力は、目に見えて繁栄していました。それに対し、キリスト教への迫害はひどくなるばかりで、教会は目に見えて不利になるばかりです。それゆえ、初代のクリスチャンたちの中には、福音を棄てる者たちが現れはじめていたのです。そして、ヘブル人への手紙の時代(紀元60年代後半)には、それがピークに達します。それゆえ、ヘブル書の記者は目に見えるユダヤ性ではなく、目に見えない福音の約束に留まるよう信者を励ましています。結果として、神殿を誇りとし、割礼や祭儀などのユダヤ性を拠り所とした1世紀のユダヤ人たちは、紀元70年代のエルサレム陥落とマサダの集団自決という形で破滅を経験します。しかし、目に見えない福音の約束を信じた初代教会は、迫害の中で生き続けることになります。ここから得られる教訓は大です!私たちが今見ている事象は永遠に続くわけではありません。今年1年間に起こることさえ予測できない私たちです。ましてや5年後10年後を知ることなど、できるはずもありません。そして、今のあり様は、その頃には確実に変化しているでしょう。「見えないものは信じられない」と言う人が多くいますが、見えるものも、相当信じられない代物であることを、歴史は教えてくれているのです。それゆえ、目に見えない神と、その御手、そして福音の約束に立つことはとても重要なのです。目には見えませんが、確かな約束である福音に堅く立っていきましょう。伝えられた言葉を大切に。
(洛西キリスト教会・奥村)

No.03『働かざるもの食うべからず』
◆テサロニケ人への手紙第二3章10~12節
私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(Ⅰテサロニケ人への手紙3章10~12節)

 「働かざるもの食うべからず」は、ロシア革命を起こしたレーニンが聖書から引用して有名になった言葉だそうです。ちなみに、パウロがこの言葉を語った背景は、教会の中で締りのない歩みをし、何も仕事をしようとせず、奉仕もせず、ただ教会に巣食ってみんなが捧げたパンを食べていた者がいて、その人たちに向かってこの言葉は語られたのです。働き口があるにも関わらず教会にパラサイトしようとする者たちに向かってこの言葉は語られました。時々、ある牧師や宣教師・献身者もこの類の人たちじゃないのかな?なんて思うこともあります。このパウロの言葉の真意を考えると、うかうかしていられません。彼はテサロニケでは働きながら宣教をしました。経済的なサポートを受けなかったのです。それは、みなの模範となり、宣教の自由を奪われないためでした。そのパウロが今日のみ言葉を語ったことを考えると、やはり牧師・献身者は気を引き締めなければなりません。経済的なサポートが与えられているならばそれを感謝し、当たり前と思わずに奉仕に専念する・すなわち「静かに仕事を」することです。働きながら牧師として伝道をしている友人がいますが、彼らの前向きさと情熱を見るとき、襟を正される思いです。「食」のために働くことは尊いことだと思いますし、働きながら御言葉を伝える彼らの姿勢に感動します。かといってフルタイムで奉仕をしている私のような牧師が責められなければならないかというと、それは間違っています。現にパウロも、御言葉の奉仕の故に、給料をもらうことを肯定しています(コリント第一9章9~10節)。問題は、仕事に取り組む姿勢なのだと思います。聖書は勤労を尊いものとして評価します。主婦の家事や子供の勉強も含め、「すべての勤労には利益がある」(箴言14章23節)というのが聖書の教えです。給料が出ない働きであったとしても、そこに無駄はありません。それは神からの賜物であり、一般恩恵です。それを尊ぶものは益を得るのですが、おせっかいばかりをして自分のやるべきことをしないおしゃべりさんは欠損を招くのです。働いている男性や女性、家事に追われているお母さん、学業に専念する子供たち、日常の様々な雑事に追われているお互いですが、神の言葉を信じましょう。その「すべての勤労には利益がある」と。神が必ずあなたに利益をもたらして下さいます。
(洛西キリスト教会・奥村)