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テサロニケ人への手紙第一

No.01『聞いて信じる』
◆テサロニケ人への手紙第一1章4~5a節
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

 「キリスト教の救いは、どのようにして得られるのか」と問われれば、その答えは「聞いて信じることによって得られる」となります。まずは、福音のメッセージを聞くことからはじまります。聞くことがなければ、信仰も生まれません。そういう意味で、初心者は、勝手な思い込みや勘違いに陥らないためにも、福音のメッセージを聞く努力が必要です。また、クリスチャンの側は、福音を知らない人に聞いてもらう努力をしなければなりません。ただし、注意が必要です。それは聞いてもらう努力であって、聞かせる努力ではないということです。神の言葉を知っているにもかかわらず福音に逆らったユダヤ人に対して、ペテロやパウロは厳しい態度で福音を宣言しました。「この御名以外に救いはない!」というペテロの排他的な説教も、それにあたります。すなわち、無理にでも聞かせたのです。ところが、パウロは、異邦人に対して、細心の注意を払い、配慮しながら、福音を伝えています(アレオパゴスでの説教)。つまり、聞いてもらう努力をしたのです。この違いをわきまえないで、馬鹿みたいにわめきたてるような宣教や、相手の気持ちを配慮しない宣教は、かえって害になります。福音を知らない異邦人に対してパウロは、聞いてもらう努力を惜しまず、相手が傾聴できるよう魅力的な宣教を展開したのです。結果として、聞いた人々は、それを信じました。つまり、聞くだけに終わらず、それを信じ、ついには確信に至り、生活に変化が生じたのです。彼らは、キリストを信じ、キリストやその弟子たちのように、神と交わりながら生きるようになりました。これはまさに、「力と聖霊と強い確信と」による変化でした。そのようなわけで、初心者も、長年クリスチャンをやっている人も、また、伝える側も伝えられる側も、福音を聞いて信じることを大切にしていきましょう。聞いて信じることは、自分という一人の小さな変化から、周りへの大きな変化へと影響を及ぼして行くのです。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」とイエス様が言われたとおりに。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)

No.02『神の救いを待ち望む』
◆テサロニケ人への手紙第一1章9~10節
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

 クリスチャンになるということは、偶像から誠の神に立ち返るということです。しかし、これは他宗教を単純に否定することとは少し違いがあります。例えば、仏教においても、本来、釈迦は偶像礼拝を禁止していました。そして、物に執着することも戒律で禁止しています。なのに、何故仏像を拝むようになったのか。実は、本来の仏教理解では、仏像そのものには力はなく、仏像は信仰を喚起する手立てでしかないそうです。そうすると、キリスト教における十字架やお魚マーク、あるいは聖餐式のパンやぶどう酒と同じような意味合いになるわけです。それそのものにご利益があるのではなく、その象徴を通して信仰が喚起させられることが目的です。そうすると、日本人庶民の仏教理解はほとんど間違っていることになりますね。仏像にご利益があると思って崇拝している人がほとんどですから、彼らは偶像礼拝者であり、釈迦が禁じていることをしているのです。また、クリスチャンでも、十字架や魚のマーク、あるいは聖餐のパンやぶどう酒、象徴的なものにご利益があると考えるなら、それは偶像礼拝者です。大事なのは内にある信仰が喚起されることであって、目に見える物は本質的なものではありません。じゃあ、偶像礼拝の何が悪いのか。答えは簡単です。偶像礼拝とは、自らを神とすることだからです。自分が人生や世界の主導権を握り、神々を動かす、というのが偶像礼拝の本質なのです。そして、ご利益がなければ、すぐに他の偶像に乗り換えて、それに帰依し、また駄目なら鞍替えする。結局、偶像礼拝者の神は自分の欲望であり、自分自身なのです。そういう人は、神の計画や導きに従おうとしませんし、神の摂理を信じようともしません。神の前にへりくだったり、神の導きや救いを待ち望んで耐えることができず、自分の欲望を基準に性急な判断を下してしまうのです。しかし、キリストを信じるとは、このような心の態度を改めることであり、「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように」なることです。まさに神を神とする。そして、自分を神の恵みによって生かされている人間として位置付ける。そして、神の救いを待ち望みながら、人間の地平で着実な歩みをする。そこに、信仰の醍醐味があるのだと思います。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)

No.03『人であり続け、しもべに留まり続ける』
◆テサロニケ人への手紙第一2章9~10節
兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

 使徒パウロはテサロニケという場所で伝道をした時、働きながら福音を宣べ伝えました。それは「あなたがたのだれにも負担をかけまいとして」パウロがしたことです。ここを読むと、牧師である私は洛西キリスト教会の信者さんたちやいろんな人に負担をかけながら伝道をしているなぁと思わされます。パウロのように「昼も夜も働きながら」伝道しなければならないのだろうか、なんて思ったりします。だからといって今から他の職業を探すというのは、なんか的外れな気がするので、とにかく今与えられている牧師としての仕事を一生懸命やりながら、福音を伝える努力をしていこうと心がけています。また、パウロのように、信者さんのつまづきにならぬよう、いやむしろ模範とならなけらばならないと思います。昨今、牧師の不祥事がとりだたされる中、なんで福音を伝える神のしもべが刑事事件を起こすのだろうと考える時に、そこにある上昇志向というか野望というか、教会の人数を増やして影響力のある牧師になりさえすれば何をしてもかまわないと言わんばかりの傲慢さが見え隠れします。そして、不祥事を起こした牧師たちはみな「私に従うことは神に従うことだ」というようなことを臆面もなく言うのです。みな神になりたがっている。「昼も夜も働きながら」、いつまでも人であり続け、神のしもべに留まり続けたパウロ、そして、人となられた神の子イエス・キリストの謙遜を思わずにはおれません。神の道は上昇の道ではなく下降の道・十字架の道です。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)
 

No.04『伝道者の生きがい』
◆テサロニケ人への手紙第一3章7~8節
このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

 パウロや初代の教会の指導者たちは、厳しい迫害の中を生きていました。同胞のユダヤ人からの迫害、後には、増えて行くキリスト教勢力に脅威を覚えたローマ帝国からの迫害、いずれもキリスト教信仰に対する妬みと誤解から生じた弾圧でした。そのような中にあって、パウロはその苦難を次のようにとらえています。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです」(3章3節)。つまり、苦難は自分たちの使命に伴う定めだというわけです。言い換えるなら、苦難を肯定的に受け止めていたということです。明確な使命感のなせるわざです。しかし、このような苦しみを耐え忍ぶことができた理由がもう一つありました。それは、テサロニケの信者たちが「主にあって堅く立っていてくれる」という事実です。パウロの宣教によって救われた人々が、堅く信仰に立っているということこそが、パウロにとっての「慰め」であり、「生きがい」だったのです。パウロが苦しみを耐えしのべたのは、当然彼の信仰の強さによるのですが、それだけで保たれたわけではなかったのです。信仰の仲間がいたからなんですね。私も、私一人で牧師をしていられるわけではありません。伝道者としての使命感が私を支えているのだけれども、それだけで保てるかというと決してそうではない。洛西キリスト教会の仲間がいて、他にも信じる仲間がいて、その仲間が信仰に堅く立っていてくれるからこそ、がんばれるのです。伝道者の生きがいは、教会の信者の信仰の歩みにあると言っても過言ではありません。信仰を持って歩み始めた人が、今も続けて信仰に堅く立っている!これこそが、伝道者の喜びであり、牧師の喜びであり、教会の喜びであり、しいては神の喜びなのです。ここに焦点を合わせて、私は働き続けます。そして、教会もそうであるべきです。主イエスを見上げながら、お互いが信仰に堅く立つことを求めて行きましょう。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)

No.05『来世の希望』
◆テサロニケ人への手紙第一4章13~14節
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

 イエスの復活は私たちの希望です。その希望は私たち自身の復活をも期待させると共に、すでに眠った人々の復活をも期待させるものです。すなわち、天国での再会の希望が私たちにはあるのです。こんなことを言いましたら、「あの人がいる天国なら行きたくありません」と言われたご婦人がいました^_^;。なるほど、と思いました(笑)。しかし、私たちは愛する人の死を経験することもあります。また、愛する人がいつか死ぬかもしれないという不安を抱えながら生きていかなければなりません。そんな私たちにとって、イエスの復活は希望の光です。「イエスにあって眠った人々」という制限があったとしても、イエスにある私たちにとって大切な人たちにも祝福が及ぶと信じます。なぜなら、主は契約の神だからです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とイエス様はおっしゃいました。私の信仰が私の家族にも影響を及ぼすということです。それゆえ、私たちの信仰は私たちにとって愛すべき方々をも祝福するに違いありません。ただし、信仰は人に強制するものであってはなりませんし、自分の信仰を自慢して人との間に線を引くものであってもいけません。信仰は自らの内であたためていくものであり、神に向かって進んで行くものなのです。その神との結びつきの強さが、結果として、結実として、副産物として、まわりに祝福を及ぼすのです。人為的・作為的であってはなりません。人を救うのは神であり、人を祝福できるのは神だけだからです。この神への全幅の信頼こそが、本当の意味での来世への希望を生み出すのです。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)
 

No.06『救いを得るように定められた』
◆テサロニケ人への手紙第一5章9~11節
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

 使徒パウロはテサロニケの教会の信者たちに向かってはっきりと宣言します。「神はあなたがたを裁きに遭うように定められたのではなく、『救いを得るようにお定めになった』のだ」と。教会とクリスチャンはこの宣言をし続けなければなりません。時々、教会の中で、熱心なクリスチャンや牧師が、お互いに裁き合っていることがあります。あるいは、自分が神になった気分で、人を罪に定めたり、悪霊呼ばわりする人たちもいます。これは熱心さが生み出す傲慢から来るのですが、真の熱心さはへりくだるものでなければなりません。基本的に私たちが宣言すべきは、イエス・キリストにある救いであり、十字架によって赦されること、神に愛されていること、そして神に期待され喜ばれているという福音のメッセージ・良い知らせでなければなりません。そして、その福音のメッセージを信じ受け入れた者は、主とともにその生涯を生きることになるのです。父なる神はそのように定められたのです。神の定めは、悲観的・絶望的な定め、あるいは、宿命とか運命とか言われるものとは一線を画すものです。神は私たちが「救いを得るように定められた」のです。それもただ、信仰告白の一点において得られる救いです。熱心な奉仕も、犠牲も愛も、救いの基準ではありません。それは救われた後の副産物です。信じるだけで救われるという恵みの福音こそが、キリスト教の中心、聖書の中心、イエスの心、父なる神の心なのです。そこから全てが始まります。この福音に立ち、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合」って行きましょう。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)

No.07『原点に返ろう!』
◆テサロニケ人への手紙第一5章16~21節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

 そもそも生きるということは苦しみと悩みを伴うものです。悩みのない安定した生活など本当は存在しないし、どんなに裕福で成功している人でも、悩まずに生きることはありません。イエス・キリストを信じて、罪の赦しを得、神の恵みによる救いを経験したクリスチャンでも、悩みがなくなるわけではありません。いや、むしろ、クリスチャンになったがために悩むようになったこともいっぱいあります。そんな人生を生き抜く秘訣としてパウロは、喜ぶこと、祈ること、感謝することをすすめます。そして、そのように生きることを神が望んでおられると彼は言うのです。更に、「御霊を消してはなりません」とパウロは言います。はっきり言って意味不明です(笑)。その後の預言についても更に現代に生きる我々を当惑させます。少なくとも、ノストラダムスの大予言みたいなのではないことはわかるのですが、それでも神秘的な要素はぬぐいきれません。いろいろあったんでしょう(^^♪。ただしその後の言葉に注目!「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」。結局、原点に返れということではないでしょうか。みなさんにとっての原点とは何でしょうか。クリスチャン全てに共通する原点はイエス・キリストの福音です。恵みのゆえに、信仰によってのみ救われる、ここが原点です。いろんなあり方がありますが、強調点がこの福音からずれていくならば、それは発展でも成長でもなく、脱線でしかありません。福音信仰を確かにしていきましょう。また、原点となる生き方は、人それぞれです。迷ったら、自らの確信するところに戻るのが一番じゃないですかね。「ほんとうに良いものを堅く守」って進んで行きましょう。
(洛西キリスト教会・奥村拓也)