説教音声・要旨 2026年7月12日(日)

  • 日時:2026-07-12
  • 聖書箇所:第一コリント11章17~22節
  • 説教題:キリストを食す

暗唱聖句

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

ヨハネの福音書6章51節

説教音声

説教要旨

我先にと自分の食事をするので主の晩餐を食べることになっていない

コリントの教会にはさまざまな問題が起こっていましたが、その中で最大のものが「主の晩餐のこと」でした。「主の晩餐」すなわち「聖餐式」が混乱していたのです。

初代教会の時代は日曜日が休みではありません。キリスト者たちは一日の仕事を終えて集まり、礼拝をささげました。教会堂はありませんので、集まるところは信仰者の家でした。礼拝プログラムでは、賛美を歌い、祈りをささげ、聖書の言葉が朗読され、説教が語られたのだと思いますが、その中で欠かすことの出来ない大切なプログラムは聖餐式でした。その聖餐式とともに行われていたのが、愛餐会でした。食事はその家が準備したのかもしれません。あるいは持ち寄りだったのかもしれません。イエスさまがたびたび食事を大切にされたことを思い出しながら愛餐会が行われました。食事の始まりに「パン裂き」があり、「食事の後、同じように杯を取って言われました」(25)とありますので、愛餐会の最後に杯でぶどう酒を分かち合ったようです。聖餐と愛餐が未整理でした。そこで問題が起こっていました。

「それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末」だったのです。自由人たちは早くから集うことができました。しかし奴隷たちは仕事を終えてからでしか集うことができません。先に集った自由な人、裕福な人たちは、待つことができず、先に食べてしまう。後からやって来た人たちの分まで食べつくしてしまう。そういうことが起こっていたのです。後から来た人たちは貧しくて食べ物を持参することができなかったかもしれません。どんなに恥ずかしい思いをしたことでしょう。

単に食事のことではないか。そんなに目くじら立てて言うことでもない。そういう声も聞こえてきそうですが、パウロはそうは思いませんでした。「集まりが益にならず、かえって害になっている」「あなたがたの間に分裂がある」。分裂というと、教理的なことや教会生活における考え方の違いによって生じることを想像しますが、パウロは、この「飲み食いのこと」で起こっていた問題を、分裂、というのです。さらに、このようなことでは一緒に集まっても「主の晩餐を食べることになっていない」といいます。そしてそれは「神の教会を軽んじる」(22)ことであると語りました。

キリストとの交わりである聖餐の中にこそ、お互いの交わりがある

「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか」(22)とあります。もし空腹で待つことができないならば、家で少しお腹に入れてきなさい、そうしてどのような立場の者であっても主にある者が一緒に聖餐を祝うことができるようにしよう。そう語るのだと思います。愛餐会はどうしてもなくてはならないというものではありません。しかし聖餐式はキリスト教の礼拝においてなくてはならないものです。教会はやがて愛餐会と聖餐式を区別しました。こうして聖餐は、主にある者すべての交わりのときとなりました。

「交わり」ということばは、キリスト教用語の一つだと思います。キリストとの交わり。それが聖餐式です。それに対して、愛餐会は兄弟姉妹との交わり、ということができるかもしれません。しかしキリストとの交わりと兄弟姉妹との交わりが別々にあるのではありません。教会の交わりは、キリストとの交わりがあり、そのキリストとの交わりの中に兄弟姉妹の交わりがあります。健やかな交わりの中に行われる聖餐式こそ、本当に主の晩餐を食べることになるのです。

キリスト教会は、キリストを信じる者たちの集まりです。信じたお方が天と地を造られた全知全能の神さまですから、私が信じた、ということもこの神さまの御手の中にあることです。キリストを信じるということは、キリストの十字架と復活を信じるということです。単にその存在を信じるにとどまることでも、十字架と復活を事実として信じるだけのことではありません。キリストの十字架と復活が、私のためであった、と信じることです。私のために神さまがいのちを犠牲にして私の罪を贖ってくださった、と信じることです。私の罪は神のいのちが犠牲にされなければならないほど深く大きいものであった、それとともに神さまはそうまでして私を贖いたい、救いたいと思われた、そう信じることです。また主イエスは復活されました。いま聖霊にあって私とともにいてくださいます。私の罪を贖うためにいのちを捨ててくださったお方がともにいてくださるので、私たちはこのお方の喜ばれるように生きるようにと招かれています。こうして神さまの愛の現れそのものである主の十字架と復活を信じることによって、私たちは救われ新しく生きる者となりました。

主を信じるということは、主と一つになることです。主はぶどうの木であり、私たちはその枝となります。主から栄養分をいただき私たちは豊かに実を結びます。この「信じる」ということを、主はご自身を「食べる」ということにおいて、ご自身と一つとなるようにと招いてくださいました。

祈り

あなたのいのちに生きる者としてくださったことを感謝します。からだ全体であなたを信じることを学ばせてください。あなたと一つになるところに、兄弟姉妹との豊かな交わりがあることを教えてください。

説教20260712-01
説教20260712-02


投稿日

カテゴリー:

, ,

予定

2026年8月5日
2026年8月6日
2026年8月7日
2026年8月8日

教会の一枚

最近の投稿

リンク