- 日時:2026-09-13
- 聖書箇所:第一コリント12章4~11節
- 説教題:「御霊の現れ」
暗唱聖句
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
第一コリント12章7節
説教音声
説教要旨
賜物は三位一体の神による(4~6)
「同じ御霊」(4)、「同じ主」(5)、「同じ神」(6)。ここに聖霊、主イエス・キリスト、父なる神の三つにして一つの神の名前が記されています。聖霊の賜物は、聖霊だけによるのではなく、三位一体の神によるものです。
私たちがそれぞれに与えられた賜物に生きるとき、具体的な働きには違いがありますが、どのような働きであってもそこには創造があり、贖いがあり、慰めがあります。父なる神、子なる神である主イエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神さまが、お働きになられているのです。神さまはご自身で何でもできるお方ですが、ご自身の御業をなすにあたり私たちを用いようとなさいます。私たちは神さまがお働きなるための器なのです。
賜物は皆の益となるために与えられる(7~10)
「知恵のことば」「知識のことば」「癒し」「奇跡を行う力」「預言」「霊を見分ける力」「種々の異言」「異言を解き明かす力」。そのほかにもさまざまに数え上げることができると思います。
さまざまに違った賜物が与えられます。たとえば預言の賜物が与えられているけれども異言の賜物はない、異言の賜物が与えられているけれども知恵のことばは与えられていない、ということです。違いがあってもそこには優劣はありません。私たちは互いに違いがあってよいのです。
聖霊の賜物は、皆の益となるために与えられます。教会に共に集う兄弟姉妹の益となる、皆の役に立つために与えられます。与えられた賜物は、自分のものであって、自分のものではありません。皆を生かすもの、教会を生かすものです。そのために用いられるべきものとして与えられます。
もし皆の益のためではなく、ただ自分の益のため、あるいは皆の益とならないような使い方をするならば、それはもはや賜物ではありません。あるいは、特定の賜物を重要視しそれにこだわり、優越感を持つとすれば、その賜物はまったく意味のないものとなります。
自分に与えられた賜物を喜びそれに生きようとするとき、果たして教会の益となっているだろうか。教会に集う兄弟姉妹の益となっているだろうか、と問われなければなりません。兄弟姉妹のために用いられているならば、それがこの世においてどんなに小さく見える賜物であっても、神さまの目には偉大な賜物です。
賜物は御霊のみこころのままに与えられる(11)
同じ一つの御霊が、これらすべてをなさいます。御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださいます。
「みこころのまま」。聖霊がお望みになるままであって、私の心のままではありません。だれかの心のままでもありません。御霊がその自由の中で、御霊の望まれるままに与えておられるのです。御霊のみこころこそ、最善であり、また自分にとっても最善です。
自分に与えられた賜物に生きるために、そしてそれが皆の益となるためには、この御霊のみこころの前に私たちはへりくだらなければなりません。みこころはなんであるのかを問わなければなりません。みこころを大切にし、それをすべてに優先させなければなりません。まことの謙遜を持っている人こそ、賜物に豊かな人です。
御霊のみこころとは、「イエスは主です」(3)と告白することです。御霊は、すべての人がひざをかがめて「イエスは主です」と告白することを願っておられます。そのために、私たち一人ひとりに賜物が与えられているのです。
まことに聖霊の賜物に溢れているところには、皆が「イエスは主です」との告白による一致があります。互いの違いが受け止められています。与えられていることを皆のために用いる献身があります。与えられている他の兄弟姉妹を喜び、自分には与えられていないことをも喜ぶ心が育っています。みこころを大切にする謙遜があります。
「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エゼキエル書11章19~20節)
祈り
与えられているものを喜ぶ者としてください。与えられていないからといって他をうらやむことから解放してください。ともに生きる仲間が、あなたを主と呼ぶ者とされるために、私たちを用いてください。そのためにあなたのみこころの前にへりくだる者としてください。

