- 日時:2026-06-14
- 聖書箇所:第一コリント11章2~10節
- 説教題:礼拝する者の心構え
暗唱聖句
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章24節
説教音声
説教要旨
秩序、自然、常識、良識、文化を大切にしつつ、聖書のことばによって改革し続ける
パウロはそれまでのユダヤ教の律法主義的信仰態度をあらため、自由で愛に満ちた信仰生活を歩むようにと指導したのだと思います。コリントの教会の兄弟姉妹たちは、パウロの指導を受け入れ、パウロも伝えられてきた教えを堅く守ろうとしていました。そこでいくつかの問いが生まれたのだと思います。その一つが礼拝における「かぶり物」についてでした。
当時、公の場所では、男性はかぶり物はかぶらない、女性はかぶり物をかぶる、ということが一般的でした。しかしパウロの教えを堅く守ろうとする中で、そのような因習めいたことは教会では必要ないのではないか、礼拝では男性も女性もなく自由にすればよいではないか、と主張する人が出てきたのだと思います。
これに対してパウロは、当時の習慣にならって男性はかぶり物をかぶらないように、女性はかぶり物をかぶるようにと語りました。なぜ男性と女性とで振る舞いに違いが生まれるのか。旧約聖書にかぶり物についての明確な戒めがあるわけではないと思いますが、パウロは創世記を参照します。創世記2章には女性(エバ)が男性(アダム)から造られたと書かれています。だから男性と女性の礼拝における振る舞いに違いが生まれて当然である、と語るのです。
この個所をそのまま受けとめて、礼拝において女性がかぶり物をすることをすすめる教会があります。聖書は神さまのことばですから、それも大切なことかもしれません。しかし字義どおりに読んだとしても、本来語ろうとしていること、すなわち神さまの愛から離れてしまうような信仰態度をもし生み出すこととなるならば、それは聖書を読んだ、ということにはなりません。
パウロが言いたかったことは、かぶり物をするかどうかではなく、文化や習慣をどう考えていくかということです。パウロは、礼拝においてはいたずらに自己主張をしないでおこう。不自然なことはしないでおこう、秩序を大切にしよう、と語るのだと思います。私たちはそのことを大切に学ばなければなりません。
「女はだれでも祈りや預言をするとき」。これは個人的な信仰生活のことではなく公の場での祈りや預言をする女性たちがいたことを物語っています。当時の社会背景を考えると驚くべきことです。教会は文化の壁を乗り越えています。しかしあまりにも行き過ぎるのも、また神さまのみこころではないのではないか、と思います。
「男が女から出たのではなく、女が男から出たからです」。男性も女性もすべて女性から生まれるのですから、この聖句は自然が語ることとは違います。しかし自然がどう語るかよりも、聖書がどう語るかをパウロは大切に考えようとします。そのうえで、教会が置かれている文化を考えながらどのようなふるまいをするのがよいかを考えようとしています。
私たちが礼拝をささげるとき、私たちが置かれている文化や習慣の中で秩序を大切にしつつ、お互いが安心して礼拝をささげることを、イエスさまは喜んでいてくださるのだと思います。そのために私たちは聖書に学びつつ、どうしても変えられないものと、変えてもよいものとを見極めなければなりません。そこで変えられるものは変えていくことを、イエスさまはまた喜んでいてくださるのだと思います。
神に造られた者として礼拝をささげる
「女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです」。不思議なことばですが、ここに書かれている「御使い」は、人間の女性に悪さをする御使いのことです。その御使いから守られるように、頭に権威のしるしをかぶるべきである、自らが神さまの権威に守られなければならない弱い存在であることを受け入れるべきである、とパウロは語ります。これは女性だけではなく、男女すべての人間に当てはまることだと思います。
私たちはみな神さまに造られた者です。神さまに造られた者であることを確かにして礼拝をささげなければなりません。男性も女性もなく神さまの前に等しい人間として礼拝をささげたいと思います。罪びとであり、救いが必要な存在であり、神さまに愛されている者同士です。それとともに違いを持っています。一人ひとりをユニークな存在、かけがえのない存在として造ってくださいました。
神さまが私を造ってくださったのであって、私が私を造ったのでも、世間が私を造ったのでもありません。両親や家族が私を造った部分はあるかもしれません。しかしそれも含めてやはり私を造ってくださったのは、神さまです。ですから、陶器が陶器師の手の中で造り変えられていくように、自らを創造主の御手に委ねつつ、造り変えていただく恵みに期待して私たちは礼拝をささげましょう。神さまに守っていただく恵みを知る者は、神さまに変えていただくことを喜びとします。
イエスさまは神であるにもかかわらずその在り方を捨てることができないとは考えないで人間となってくださいました。二千年の昔、パレスチナのナザレに、ひとりの大工の子としてこの世を歩まれました。このお方を主と仰ぎ見る私たちは、自らを主によって変えていただくことを喜びとします。
祈り
この地に生きる者、歴史と文化の中に生きる者として、さまざまな違いを持ったお互いであることを喜びとして、あなたに礼拝をささげます。あなたの喜んでくださる者へと、自らが変えられることをまた喜びとさせてください。

