説教音声・要旨 2026年5月10日(日)

  • 日時:2026年5月10日
  • 聖書箇所:第一コリント10章23~29
  • 説教題:人を育てる信仰

暗唱聖句

「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」

第一コリント10章26節

説教音声

説教要旨

キリストの十字架と復活によって救われた私たちは、この世界にあるすべてのものが主のものであることを信じている。よって自由である

神さまが世界を創造されたとき、神さまはすべてのものをご覧になって「良い」と言われました(創世記1章)。この世界にあるすべてのものは、もともとは「良いもの」なのです。

しかし罪が入って以来(創世記3章)、世界にあるすべてのものが良いものとは言えなくなりました。人間と神さまとの間は断絶しました。同時に人間は、神さまによって造られたすべてのものとの間に問題を抱えるようになりました。神さまとの関係が破壊されると、すべての被造物との間に平和が失われ、人間関係にも問題が起こり、自分自身とさえ平安をもって生きることができなくなりました。

神さまはいくども人間との関係を修復しようとされました。祭司を立て、十戒を与え、預言者を派遣されご自身のみこころを語ってこられました。しかし人間はますます頑なになりました。神さまとの断絶によって引き起こされるさまざまな問題は、世界に蔓延しました。

そのような世界にイエス・キリストは来られました。十字架と復活の御業によって、人間と神さまとの間に和解を実現してくださいました。それと同時に人間とすべての被造物との間にも和解を実現してくださったのです(第2コリント5章17~19節)。主にある私たちは改めてこの世界のすべてが、神さまのものであり、すべてが良いものであると告白します。

ですからたとえ偶像にささげられた肉であっても、何の妨げもなく食することができます。偶像礼拝とは自らの欲望のままに求めることです。自らの欲望のままに求めるのではなく、神さまへの感謝をもって受けるならば、捨てるべきものはなにもありません(第1テモテ4章4節)。神さまが造られたものは、すべて良いものなのです。

イエスさまを信じる私たちは、すべてものを、感謝をもって受け取ることができる全き自由をいただきました。なんの詮索もせず自由に受けることができるのです。

救いにあずかった私たちがいただいた自由は、他者のために自分の自由を捨てることができる自由である

当時、未信者の家庭の食卓に招待されて、そこで出されるものは多くの場合偶像に献げられたものでした。それを食べることは信仰的にどうだろうかという人がいたのだと思います。8章から語られ始めたことの結論が語られます。パウロは、良心の問題、すなわち宗教的な道徳意識によっていちいち詮索するなどということはしないで食べればよい、しかし、もしそこに、これは偶像にささげたものですから食べることには躊躇します、という人がいたならば、その方の良心、すなわち、偶像にささげた肉は食べないという人の宗教的な道徳意識のために食べてはいけない、とも語ります。私の良心は横に置いておいて、目の前のその人の良心を最優先に考えようというのです。別の言い方をするならば、自分の良心による判断の正しさにこだわっている人がいるならば、そのこだわっている人の良心を大切にしてあげるために、自分の良心は後回しにしよう、自分はこだわらないようにしようというのです。

「私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか」(29)。

神さまが与えてくださった「私の自由」が、他の人の良心による判断、によって「さばかれる」ことがあるだろうか。神さまが与えてくださった私の自由は、他の人の良心によって左右されたり、振り回されたりするようなものだろうか。いや、そのようなことはないはずである。私が神さまから与えられた自由は、その自由さえも捨てることの出来る自由である。自由に食べてもよいし、食べないこともまた自由である、というのです。なんという自由でしょうか。主にお出会いした者がいただいた完全な自由がここにあります。

「すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」(23b,24a)。

自由は、放縦でもわがままでもありません。したい放題ではないのです。すべてのことが許されているとコリントの人たちは言っていたのだと思います(6章12節)。しかしそれが益になる、すなわち人を育てることになるとはかぎりません。自分がしたい放題をすることが、誰かを傷つけたり、誰かを打ちこぼってしまったりすることがあるのです。ですから私たちが自由と言うとき、それが人を育てることになるかどうかを判断しなければならない。ひとたび人を育てることにならないと判断するならば、その自由は捨てなければならない。食べるか食べないか。いずれであっても人を育てることが第一のことである、といいます。

この23節の「人を育てる」と訳されている言葉は、原文では単純に「(家を)建てる」という言葉です。教会を建てることです。教会は建物ではなく信仰に生きる人の群れですから、教会に生きる兄弟姉妹を建て上げ、そうして教会が建て上げられていくことです。私たちの自由は、そのような目的において発揮されるものです。誰かの良心のために、自由に自分の自由を後回しにすることの出来る全き自由を発揮する人びとによって教会は真実の成長を遂げることができます。私たちはこの自由をいただいています。そのためにキリストは十字架にかかりよみがえってくださいました。

祈り

主イエス・キリストの父なる神さま。まことのさばき主であるあなたが、罪びとである私たちを赦してくださいました。あなたとの和解をいただいた今、私たちはすべてのものとの間に平和をいただいています。全き自由をいただいています。どうか全き自由に生きる喜びを確かにさせてください。教会がこの世界にあって、まことの愛と平和を語るところとして用いてください。そのために私たちを遣わしてください。

説教20260510-01
説教20260510-02


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