- 日時:2026-6-28
- 聖書箇所:第一コリント11章11~16節
- 説教題:祈る者の心構え
暗唱聖句
心を尽くして私はあなたに感謝をささげます。
御使いたちの前であなたをほめ歌います。
詩篇138・1
説教音声
説教要旨
神さまの前にお互いが必要とされている存在
「女は男なしにあるものではない」「男も女なしにあるものではない」(11)。つまりお互いに相手を必要としている者同士である、とパウロは語ります。さらには「女が男から出た」「男も女によって生まれた」(12)と語りました。男女はお互いにさまざまな違いを持っているけれども、お互いに相手を必要としている者同士であり、お互いがなくては存在しえないものである、そうして「すべては神から出ている」のです。
男女だけではありません。私たちはさまざまに違いを持っています。教会は違いを持っている者同士の集まりです。その違いのあるお互いが、お互いに相手を必要としている者同士であること、お互いは神さまから出ている者同士であることが確認されるところで、教会は一つになります。
私たちはみな罪びとであり、神さまから出ている者同士であり、主の十字架によって贖われた者同士です。私たちはお互いに神さまの御手の中にあるなくてはならない者同士なのですから、神さまから与えられた愛に従ってお互いに仕え合いたいと思います。
自分自身で判断する
パウロは「自分自身で判断せよ」(13)と語りました。パウロは強制しません。
そもそも信仰は強制されて生まれるものではありません。信じるということは、強制されてではなく、自分自身が判断をすることで生まれます。口先で信じるということなら強制されてできるかもしれません。しかし、それは本当に信じたということではありません。また、信じるということは、だれかに代わりにしてもらうこともできません。自分自身がしなければならないことであり、自分だけができることです。
信仰生活の中でのさまざまな事柄も自分自身が判断するものです。もちろん教会や先輩のキリスト者に教えられるということはあります。それでもやはりその教えられた教えに自らが自律的に判断をすることです。
自分自身で判断するということは、神さまの前に判断するということです。神さまに造られた者、神さまに贖われた者として、神さまの前に判断をする。また共に信仰生活を歩む兄弟姉妹の中にあって自分自身が判断をする。そうして信仰生活は形作られていきます。
祈りにおける心構え
「女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか」(13)、「自然そのものが・・・教えていないでしょうか」(14)、「そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません」(16)。パウロは、教会の集いにおける祈りについて、その「ふさわしさ」「自然」「習慣」を大切にすることをすすめます。
ここに語られている男女の違いやかぶり物、髪の長さについての教えは、今日の教会においてはもはや意味を持たないことだと思います。ふさわしさ、自然、習慣は時代や文化とともに変わります。しかし教会が置かれているそのところでの、ふさわしさ、自然、習慣を大切にする心は、昔も今も変わりません。教会生活、信仰生活において、そして祈りにおいて私たちはこれらのことを大切にします。
「・・・神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか」(13)。神さまに祈るのだから、周りの人のことなど構わないでよい、ましてや習慣など気にすることはない、という考えも起こってくるかもしれません。しかし聖書は、神さまの前に祈るということにおいて、個人的な生活の中での祈りと、公の場所、礼拝における祈りとには違いがある、と語るのだと思います。個人の生活の中で祈るならば、かぶり物など気にすることはないと思います。しかし公の場所ではそうではない。公の場所での祈りには、公の場所にふさわしい祈りがあるのです。祈りのスタイルもそうだと思いますが、祈りの内容も同じようにふさわしさを考える、あるいは配慮することが大切だと思います。
美辞麗句を並べる必要はまったくありません。救われた喜びを確かにしつつ、その場にいる人たちと共有することの出来る言葉と内容で祈ります。平易な言葉と共に集う者が心からアーメン(その通りです)と祈ることの出来る祈りを祈ればよいのです。
「神の諸教会にもありません」(16)。コリントの教会での祈りが、特異なものではなく、諸教会とも同じくするものであるようにとパウロは願います。ここに「公同の教会」を信じる初代教会の姿が明らかにされています。私たちの教会も地方教会の一つとして、公同性を求める努力を怠ることなく、また公同性から離れようとする誘惑と闘いつつ、ともに宣教の業に加えられている喜びを確かにしたいと思います。
祈り
あなたに祈ることの出来る幸いを与えられ、まことに感謝します。子どものように祈れることの幸いを覚えつつ、だからこそ、公の場においてそのふさわしさを求めることができるように知恵を与えてください。そうしてともにささげる礼拝を豊かに祝福してください。すべての教会の中にあって、ささげる祈りを豊かにしてください。

