誰にも知られないところで何をするか、もし人が見ていなかったら〈こうしただろう〉ことは何か、人の目に隠れたところに出て来る自分こそ、ありのままの自分であろう。知られない処で当然のように行われた善こそ、価値ある善だと思う。このような善こそ神に捧げられた善行と言えるのではないか。人に知られないでした善き事が人前に持ち出されると、何か良いものを失ったように思うのに、自分の口で好評してしまうことさえある。
知られない善を〈たくさん〉持っている人は、人間的な深みのある人だと思う。それがその人の徳の高さにもなる。神様と自分だけ「善い思い出」を、たくさん持ちたいと思う。
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